――十代目が記憶を無くされた。
俺たちが恋人のような関係になってから1年と1カ月。
子供だった俺たちは拙い想いを互いにぶつけ合って、しあわせであたたかな時を過ごしてきた。
週末、お互いの家に泊まり合って、一緒にご飯を食べたり、宿題をしたり、子供の自分たちにしか出来ない時間を過ごした。
俺はあの人が好きだった。きっと愛してた。
あの人もきっと、俺を愛してくれていたと思う。
―――…そう、ずっとそんな関係が続いてゆくものだと、その時は、信じて疑わなかった………。
―――幼かった自分の犯した過ち。
それがあの人を追い詰めていたなんて、俺はずっと、気付きもしなかった。
あの人が壊れて消えてしまうまで……――――。
「獄寺くん、じゃあまたあしたね」
そう言ってあの人が帰って行った夕暮れ。
「本当に大丈夫ですか…?お顔がすぐれませんよ」
家まで送るという俺の申し出を彼は頑なに拒否して、ふらりとふらつく足取りのままマンションを出ていった。
『――獄寺、今すぐに来い。ツナが昏睡状態になった』
それから12時間も経たないうちにリボーンさんから緊急の連絡が入り、身近な者だけが集められた。
日の上りきったばかりの道を、俺は彼の家まで全力で走った。
心臓がばくばくとうるさく音を立てて、口の中に鉄の味が広がったけれど、そんなことすべて無視して
俺はただひたすらに走っていた。
――彼の家に着くとすでに数人の人間が到着していた。
慌てて彼の部屋へ上がると、彼はいつものベッドでいつものように穏やかに眠っていた。
ただひとつ違ったのは、呼びかけても揺らしても、彼が全く目を覚まさなかったこと。
「………リボーンさん、これは………」
訳が分からず取り乱す俺に、黒ずくめの赤ん坊は小さく首を振った。
「見た目は特に問題無いが…、ボンゴレ医療班が調べた結果、脳波に若干の異常が見つかった」
「―――…脳波、ですか…?」
「脳波の異常は微々たるもんだ。何かに感染したでもない。病気でもない。ただ、眠り続けているだけで、いつか目を覚ますかもしれない。
覚まさないかもしれない。そのどちらとも言えないそうだ」
「…………そんな……!」
「――今日はそれを皆に説明する為に集まってもらった。
もし、万が一、ツナがこのまま目を覚まさなかったら、守護者の今後については考えね―といけねーからな…」
取り乱すところなど一度も見せたことが無い最強の赤ん坊の、心なしか落ち着きの無い様子に、
俺は事の大きさを、このとき初めて実感していた。
――その日から、俺はリボーンさんとお母様に無理を言って、沢田家に居候をさせてもらうことになった。
マンションは引き払わない。
十代目が眠り続けていることはボンゴレ内でも一部の人間しか知らなかったが、この混乱を狙って十代目の命を狙ってくる輩がいるかもしれないと
そのための護衛だった。
――…でも、それは確かに本音ではあったが、心の中に仕舞っていた本当の想いは、ただ、この人の側にいたかっただけなのかもしれない。
そして2カ月ほどが経った、夏の暑い日。
俺はいつものように十代目に朝のご挨拶をするために、彼の人の部屋へと入った。
眠り続ける主が不快な思いをしないようにと、普段ではあまり付けていなかったクーラーが、この年はフル稼働していた。
「――十代目、おはようございます。ご気分はいかがですか?今日も少し暑いですがとてもいいお天気ですよ。
今日はハルと笹川がお見舞いに来るって言ってました。そのあと、アホ牛…じゃなかった、ランボとイーピンが庭にビニールプールを作って
水遊びをするんだそうです。…もちろん俺は見物する方ですけどね」
そう言いながら、彼の人の額に浮いた汗の粒を冷たく冷やしたタオルで拭いて差し上げた。
……本当なら、このなめらかな額に己の唇を這わせたい、などと、汚い欲求を胸の内に隠しながら…。
―――すると、微かに、微かにではあるが彼の人の瞼がふるふるっと震えたのだ。
「―――………!?」
痙攣をくり返す、薄い瞼。
――…そしてゆっくりと開かれる、その瞳。
以前と変わりない、琥珀色の宝石のような輝きが天井を見つめて、周りの視界をうつす。
細い首がゆるりとひねられて、それがふいに俺を捉えた。
…そして、その薄い、珊瑚色の唇が、ちいさくか細い言葉を紡ぐ。
「――――……ごくでら、くん………?」
あまりの衝撃に言葉を失ってしまった俺に、彼は更に言葉を付けたした。
「………俺、もう一度生まれてきたんだ。壊れた欠片の中から………」
そしてにっこりと微笑まれたその笑顔に、おれはただ、涙をこぼして喜んだ。
「記憶が、無い――――?」
彼の人が目覚めてからいくらも経たぬ沢田家の裏庭で、俺はリボーンさんと向き合っていた。
「で、でも!あの人は俺の名前を呼んでくださったんですよ…!?
記憶が無いなんて、そんなこと嘘でしょう!!?」
俺の取り乱しっぷりに彼はふぅっとため息を吐いて、ただ坦々と告げる。
「嘘じゃないぞ。――俺の事だって名前くらいなら覚えてたがな、肝心の中身がねぇ。
いままで何をしてどう過ごしてきたか、それがすっかり抜け落ちちまってる」
「――――……そんな……!」
「ひとまず身体に異常は無いそうだからな。俺はあいつの教育をもう一度はじめっからするしかねぇが……。
獄寺、お前はどうする。今のツナと一緒にいられるのか――?」
「っ、それは………」
「今のあいつはあいつであってあいつじゃねぇ。お前を愛した沢田綱吉じゃねぇってことだ」
「!! ―――……知って、らっしゃったんですか………」
「ちなみにお前が二股かけてたのも知ってるぞ。
本当なら壊れちまったツナの代わりにお前を殺してやりたいところだが、俺はそこまで面倒見がよくねぇからな」
一瞬、本気の殺意を向けられて、背筋が凍るように戦慄いた。
「……そういうことだ。お前はこれからの身の振り方を、きちんと考えとけよ」
去ってゆく小さな背中を、呆然と見つめる。
――…今頃、庭先ではランボやイーピン、笹川にハルが十代目を囲んで取りとめの無い話をしていることだろう。
(―――……じゅうだいめ、……知ってらっしゃったんですね、俺の秘密を…―――)
謝りたくても、もうあの人はどこにもいない。
俺は置いて行かれてしまった。
あの人は、もう、壊れて消えてしまったから…―――。
それから10年の月日が経った、春の暖かい日――。
イタリアのボンゴレ本部に程近い教会で、十代目と笹川京子の結婚式が執り行われていた。
――これでふたりは晴れて夫婦となる。
大きな組織をひとりで担う十代目に、美しい妻が出来たことを、皆が喜び歌った。
――…あの人は美しく、強くなった。
記憶を失われてからも何ひとつ努力を惜しまれず、以前以上にボンゴレのために、ファミリーのためにと戦い抜いた。
そんな中で、俺はひとり、白いタキシードで幸せそうに手を振る彼を、遠巻きの中から見つめていた。
――…これでよかったんだ。俺じゃああの人をしあわせに出来ない。
あの人の隣にはやさしい女が似合う。あたたかい家庭が似合う。
俺はあの人を、しあわせにして差し上げられなかったから………。
赤と、白のアネモネが、一面に咲いていた。
『心から、きみを愛している』と、花たちが風に揺られながら歌っていた―――。
十代目の病状が急変したのは、それからたった4年後のことだった。
ベッドに横になり動けなくなってしまった彼の周りには、彼の最愛の子供、おそらく11代目になるであろう男の子が
楽しそうに走り回っていた。
妻である彼女は、いつのときも彼の側を離れずに看病したが、彼の身体は着々と、死に蝕まれていった。
彼を弱らせている病の原因は、どんな有名な医者が診ても、全くと言っていいほど解らなかった。
――しかし、いつの時も彼は笑みを絶やさずに笑っていた。
「――…おそらくあと2,3日の命でしょう」
医者からの宣告が下り、俺たちはひとりずつ、彼との最後のお別れの時間を設けられた。
笹川、雲雀、骸、山本、ランボ、と続いて最後に俺の番が来た。
「―――…じゅうだいめ、失礼します」
控え目にノックをして、重たい扉を開けると、クラシカルなキングサイズのベッドに、彼がひとり、微動だにせず眠っていた。
「――十代目、俺です」
そう枕元で囁くと、彼は重たそうな瞼を上げて、少しにごりがかった目で俺を見てきた。
細かった腕や肩はよりいっそう細さを増し、青い血管が浮いて見えた。
息をするのも苦しそうな彼は、俺を捉えてふわりと微笑むと、ベッドの脇の椅子に座るよう、視線で示した。
俺がそれに頷き従うと、彼は俺の方を見つめたまま、
「――――……よく来たね……。…今日はね、きみに言わなくちゃいけないことがあるんだ………。
…………俺ね、きみのこと……、ずっと愛してたよ………」
と、ほとんど空気まじりのか細い声で仰ったのだ。
「―――――……え………?」
「……もう、言えることも無いと思うから、言っちゃうけど………。
…ごくでらくん、俺はね、……いや、あの日が来る前の俺は、世界に絶望して自分自身を粉々に壊したんだよ……。
――…でもね、君に対する愛情だけはどうしても壊せなくて、それだけが俺の中に残った。
……そして、俺は、そこから生まれたんだ。君への愛情の中から……」
彼はやさしい日だまりのように微笑んでいたけれど、俺はその意味を理解出来なくて、ただ茫然と彼の人を見つめた。
「俺は生まれたあの日から、きみのことがずっと好きだった。
……あたり前だよね、俺は君を愛してた、前の俺の感情から生まれたんだから…。
でも、それはたぶん、きみをどうこうしたいって感情じゃなかったんだよ。
――…ただ、きみを守りたい。きみに笑っていて欲しい。そういう愛だった。愛情だったんだ……」
「………ごめんね、俺は以前の俺のようにきみを愛せはしなかったけれど、
きみのことを、俺がとてもとても大切に思っていたことは、知っていたから……。
―――…もし、来世で俺と出会えたら、愛してるよって言ってあげてね…。
ずっと、そばにいてあげてね…。俺だけを、愛してあげてね………」
そう言って目を細めた彼の頬に、ひとすじの涙が伝った。
それは彼の感情だったのか、以前俺を愛してくれた彼の感情だったのかは分からなかったけれど、
俺はただ、熱く、胸を締め付けるその言葉に、………ただ、ただ、涙を流し続けたのだ―――――。
「ごくでらくん、大好きだよ。
ずっと一緒にいようね…!」
「――はい、じゅうだいめ…!
俺もずっと、あなたを愛しています…!」
◇アネモネの花言葉◇
「はかない恋」「恋の苦しみ」「薄れゆく希望」「清純無垢」「無邪気」「辛抱」待望」「期待」
赤いアネモネ 「君を愛す」
白いアネモネ 「真実」「真心」
この小説をくれたみくみくとKAITOの歌っている『君のてのひらから』をここに載せておきます。
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