それから約数日後のある日の夜。
営業用の小型トラックを走らせながら、彼、獄寺隼人は、ついひと月前まで『主』と呼んでいた人との会話を思い出していた。
――獄寺が沢田と出会う、それより少し前のこと。
イタリアのボンゴレ本部にて書類整理などの仕事に追われていた獄寺隼人は、同盟ファミリーとの会食から帰宅した9代目に、
直々に呼び出された。
一年ほど前までどこのファミリーにも属さず、生きるために独り仕事をしてきた獄寺が、何故イタリアのトップに君臨する
ボンゴレ9代目の目に止まり、スカウトされたのか……。
それは獄寺だけでなく、ボンゴレ側の人間から見ても謎だった。
――自分は何のために、巨大組織ボンゴレに迎え入れられたのか……。
自分はこれから、一体何を成すべきなのかと、そう、毎日のように考えていたある日…―――。
『コン、コン、コン、コン』
重厚な木製のドアを叩く音が、シャンデリアの下がった廊下に響いた。
「9代目、獄寺です」
「――…入りなさい」
声を抑えたような優しい応答に、獄寺はそうっとドアのノブに手をかけて、重たく重厚なそれを『ギィィィ』と手前に引き開けた。
そこは9代目専用の執務室で、シンプルながらも質の良いアンティーク調の家具で統一されており、
本来なら幹部しか立ち入ることを許されていない、最奥の場所だった。
「――…やぁ、待っていたよ」
毛足の長い絨毯に、長い足が下ろされた同時に掛けられた、その声。
それはフロア中央に置かれた高級ソファーの上からのもので、軽く手招きをしながら自分を呼んでいた。
「こっちだよ、ここに座りなさい」
「……失礼します」
ドアを閉め、一礼してから主の座るソファーへと歩み寄ると、アンティーク調のガラステーブルに並べられた茶器を手なれた風に扱い、
その人自らが、琥珀色の液体をカップに注いでいるところだった。
「…! 9代目!茶の支度でしたら俺が……!」
血相を変えて差し出した俺の手を、9代目は温かく微笑んで下げさせた。
「いいんだよ、私がしたかったんだから。それに私の淹れる茶はうまいって、これでも結構評判なんだよ?」
優しい目元が一層細まって獄寺を捉えた。
「…しかし」
「ほら、紅茶が冷めるだろう。早くソファーに座りなさい」
右手で軽く足を叩かれて、獄寺は仕方なさそうに斜め向かいのソファーに腰を落ち着けた。
「いつもはコーヒーなんだけれどね……。今日は珍しく良い茶が手に入ったから。
――スリランカ産のラプサンスーチョンだよ。…君は知ってるかい?」
「………はい、名前だけは……。…昔、家族が好きだったもので……」
歯切れ悪く応える獄寺に9代目は気を悪くした風も無く、ただ、湯気の上がる紅茶にひとくち口をつけて笑った。
「そうかい。私もこの香りがとても好きでね。
――…うん、今日の茶もとても美味しい」
皺の刻まれた目元が、深い赤色をした水面を見つめて緩く笑んだ。
「昔はね、これをよく淹れてもらったものだよ…。
――もう10年も前になるのかな………?」
「…………」
「――……獄寺くん」
「はい」
「君はボンゴレが好きかね」
「…はい」
「君は今、幸せかね」
「…………はい」
「ふふっ、君は嘘が下手だね。――いいんだよ。本当のことを言ってくれて」
「……………」
馬鹿正直に黙り込んだ獄寺に、9代目はすべてを見透かせるという、年老いても綺麗なままの琥珀色の瞳を向けて笑った。
「獄寺くん」
「――…はい」
「君、日本に行ってみる気は無いかね」
「………日本、ですか…?」
「――そう、日本だ」
その言葉に、獄寺は思わず、何故?と怪訝な表情を浮かべた。
「君に会って欲しい子がいてね。その子が今、日本に住んでいるんだよ」
「…………」
「ちょうど君と同い年になるのかな…?
私の可愛い孫でね…、実際には遠い親せきに当たるんだが、私もその子も、お互いを家族のように思っている。
――…当然、尊いボンゴレの血を引いている」
「………9代目、それは……」
「――何をしてほしいわけでもないんだよ。……ただ、会って欲しいだけ。
君にあの子を見て欲しいんだ」
「…しかし」
「その後の事は君に任せるよ。
まだ正式には、あの子はこちら側の人間じゃないからね。
気に入って友だちになるも良し、仕えたいと思えば、仕えてもらっても良し。
もちろん嫌だと思ったのなら、こちらに帰ってきてもらってもいい。
きちんと君の居場所は開けておくからね」
「…9代目」
「どうだい?ちょっと休暇を取るようなつもりで、行ってみてはくれないかい…?」
「…………。…9代目がそこまでおっしゃるのでしたら……」
「そうか!行ってくれるか…!
――…じゃあ、すぐにでも飛行機の手配をさせよう」
「…えっ? もう、すぐにですか?」
「あぁ、申し訳ないね。出来るだけ早く行って欲しいんだ。
……そろそろ向こうも大変な時期だろうからね」
「?」
「とりあえず、詳細はまた明日にでも知らせるから、発つ準備だけはしておいてくれ」
「…はい」
「今日は疲れただろう、帰って休みなさい」
「――…はい、失礼します」
――そして翌日。
早朝から与えられていた部屋の片づけ、日本に持っていく荷物の整理などをしていた獄寺のもとに
9代目の右腕コヨーテ・ヌガーより、日本行きについての資料が届いた。
格下なのであろう男が持ってきた茶封筒を開けてみると、そこには航空便のチケットが一枚と手紙が一通。
そして『フェウチミーノ空港10時15分発、日本行き ×××便。』など、日本までの行き方が書かれたプリントが一枚。
日本で生活することになる建物の住所が書かれたプリントが一枚。
「――…ん?………あとは……」
袋を逆さまにしてみたが、他には何も出てこない。
「………ま、まさか、これだけかよ……」
肝心の次期ボンゴレボスに関しての情報がなにひとつ無い。
訳がわからず一緒に入っていた手紙に手を伸ばすと、それはこの任を与えた9代目からのもので
獄寺はなかば縋る思いでそれを開封した。
―――…そして、
「…………。はぁぁぁぁ〜…!?」
思わずドアに向かって絶叫していた。
――手紙に書かれていた内容とはこうだ。
『獄寺くん、私の我が儘を受け入れてくれてありがとう。
とりあえず、日本であの子が生活している町に住むところを用意しておいたから、そこに入ってくれたまえ。
あと、申し訳ないんだが、その家というのがボンゴレの経営している運送会社の持ち物でね。
住んでもらう以上、働いてもらわなくては困るとコヨーテが言うので、あちらの会社にはアルバイトとして君を紹介しておいた。
そこで働いていれば、あの子には必然と会えるだろう。
運送会社の社員はマフィアとは一切関係の無い人々なので、くれぐれもボンゴレの事は内密に頼むよ。
――では、検討を祈る。
ボンゴレ9代目、Timoteo.』
「……マジで、これだけかよ……」
(あんのクソ親父…)←これはコヨーテに対してだ。決して9代目の悪口を言っている訳ではない。…たぶん。
マジで頭痛がする。
俺は一体何のために、このファミリーに迎え入れられたのか。
どうして9代目は、俺を次期10代目に会わせようとお考えになったのか。
……つーか遊ばれてる? まさか。
しかし、顔も分からない人物をどうやって探す…?
今分かっていることと言えば、自分と同い年…、という事だけ。
それもはるばる極東の地まで行ってアルバイト生活………。
言葉も無い。
――9代目直々の頼み、ということで安請け合いしてしまったけれど、
その時の獄寺は本気で失敗したかもしれないと思った。
……そう、あの人に会う、その時までは――。