蒼と緑のあわさったような色合いが目の前に広がっている。
ちらちらとゆれる光は足もとまで届かず、ただ、闇がぽっかりと口を開けて綱吉を招き入れた。
――――自分はこのまま死ぬんだろうか………。
ずるずると深い水中へ引き込まれながら、死への恐怖と思いのほか冷たかった水の温度に
頭の感覚が麻痺してゆく。
どこまでも深く深く続く水中の世界は、ただ果てしなく暗いばかりで、自分が思っていたよりもずっと陰鬱なものだった。
(……………苦しい…)
果ての無い闇は綱吉の身体をゆっくりと包んでゆき、光を求めて伸ばした指さえ見えなくしてしまう。
すがるものを無くした手は、ただゆらゆらと揺られて水の流れにただようばかりになった。
(―――……最後に一度……、ハヤトに会いたかったなぁ…………)
ごふっ、と最後に残っていた酸素が体内から出てゆく。
その泡が作りだす光景を、綱吉は場違いにもきれいだと感じていた――――。
―――それからどれだけの時が経っただろうか。
数分、……数秒?
深い闇の中に、ほのかに輝く一筋の光が射した。
それは虹色の輝きをまとって、徐々に明るさを増してゆく。
暗く冷たいばかりだった世界は、白くあたたかな色を帯びる。
そしてその光がふわりと綱吉の身体を包んだ瞬間、まぶしいほどの輝きが水中へと飛び込んできたのである――――。
………夢を見ていた。
ずっと遠い、遠い記憶の断片。
それは遥か昔に無くしてしまった筈の大切な記憶、だったのかもしれない………。
銀色の毛並みが小さな身体を拾い上げて、ぐんと高度を増す。
夜色に染まった世界は大きな金色の月に照らされて、祭囃子の音が風に乗って聞こえてきた。
大きな獣の姿に泣くかと思われた子供は、不思議と何の違和感も無く彼を受け入れて、
みじかい腕に精一杯のちからを込めて、ひんやりとしたその柔らかな毛並みを握り込んだ。
満点の星々と金色の月が創る藍色の世界はただ美しいばかりで、子供は流れ星が落ちるたびに
そのみじかい腕を伸ばして、それをつかまえようとするのだった。
ゆっくりと瞼を押し上げると、濃い緑色をした枝が自分の頭上を覆っていて、
やさしい淡い光が風に揺られながら地面へと差し込んでいた。
徐々に鮮明になる耳には暑い夏を感じさせる虫たちの声が近づいてくる。
(……………)
ふわりふわりと額をなでる風は、ひんやりと冷えていた綱吉の身体をあたたかく溶かしてくれた。
(…………、こ、こは………?)
ゆっくりと身体を起こすと一瞬頭に鈍痛が走ったが、それは次第に風のように凪いで消えていった。
すぐ脇にあった木の幹に背をあずけて辺りを見渡すと、それは数日前に見たのと変わらぬ景色、
眼下に町の様子を望む、あの丘の上の光景だった。
(………俺、よく生きてたな………)
それでも、自分の着ている服はぐっしょりと水分を含んで重く、つい幾時分か前まで死と直面していたことを思い起こさせた。
人以外のものに襲われただなんて、長い人生、そう滅多にあることじゃない。
(しかも半分死にかけてた………)
あの時感じた恐怖感にゾッと鳥肌が立ってしまい、思わず両腕を抱きしめる。
―――すると、その凍える身体の真ん中で、ふわりふわりと輝くものが、ふと綱吉の目に入った。
それはつい数週間前に、彼がくれたあの石の首飾りだった。
手のひらに乗せると微かに熱を帯びており、その白とも虹色とも言えるような柔らかな輝きが
綱吉の手のひらをあたためた。
(…………ハヤト………)
遠ざかる意識の中で、確かに自分はこの輝きを瞼ごしに感じていた。
自分を守るように、励ますように包んでくれたあの光。
……きっとあれは、この石が放ったもの、だったのかもしれない。
おかげで自分は死後の世界へ足を踏み入れずに、こちら側の世界に帰ってこられた。
綱吉はあたたかな石に指を滑らせると、それを大事そうに握り込んだ。
―――…ふと、強い風が頭上を駆け抜けた。
そっと顔を上げると、夢の中で見たのと同じ銀色の獣が、目の前にゆっくりと降下してくるところだった。
音も無くきれいに着地した彼は、口に銜えていたものをおもむろに差し出すと、
ぺろりと綱吉の頬をひと舐めした。
「――…あ。……これ、俺の服………?」
ちいさな紙袋に詰められていたのは、よく見慣れた子供用の衣服だった。
「………わざわざ、取ってきてくれたの…………?」
ちらりと視線を投げかけると、目の前の獣の口もとが微かに笑んだような気がした。
(………姿は違うけど、やっぱりこれはハヤトなんだ……。
―――…じゃあ、さっきの夢も、現実………?)
自分が忘れてしまっていただけで、彼はその記憶を大事に持っていてくれた……?
「―――…ハヤト………!!」
綱吉はおもいきり彼の首もとに飛びついた。
(あの夢と同じ、柔らかくて冷たい毛並み………)
夢で見た記憶が、決して空想では無かったことを示していた。
ぎゅうっと強く抱きしめると、腕の中にあった身体がふわりと形無くゆがみ、一瞬にして美しい青年の姿に変わった。
「…遅くなって悪かったな……。怖かっただろ………?」
力強い腕に抱きすくめられながら、囁くように優しい声音を耳元に吹き込まれた。
「………ううん……。ハヤトが来てくれたから、もう怖くないよ………」
彼の声に安心したのか思わず目がしらが熱くなって、かすれた声が出たけれど、腕は緩めなかった。
そんな綱吉を彼は痛々しそうに覗き込んだかと思うと、より一層強い力で抱き締め返してくれた。
――銀色の髪が頬の上でさらさらと音を立てていた。
温度の無い、冷たい身体。
人ではない、自分と違うもの…。
そしていつかまた、別れが来るかもしれないけれど………。
それでも自分は、この身体が、この声が、とても好きだった。
綱吉は隼人に甘えるようにして、彼の首筋に顔を埋め、小さくクスンと鼻を鳴らした。
――夏はもう、折り返し地点を過ぎていた。