記憶を取り上げられたことすら忘れて、ずっと今まで過ごしてきた。
(……ハヤトはどう思っていたんだろう……)
いきなり普通の子供のように振舞うようになった俺を訝しんだだろうか………。
――…きっと彼は何も知らない。
(ちゃんと話をしなくちゃ……)
涙の伝った頬をぐいっと手のひらで乱暴にぬぐうと、綱吉は静かに顔を上げ、
自分を覆うように包み込んでいる白い光の渦の壁に向かって、語尾を僅かに震わせながら、勇気を出して声をあげた。
「――…俺、ハヤトに会いに行かなくちゃいけなくて……、
そろそろ向こうに戻りたいんだけど………!」
――…すると、濃く立ちこめていた靄が徐々に一点に集束してゆき、気がついた時には、綱吉は元いた真夜中の境内に
いくつかの影と共に立ち尽くしていたのだった。
「―――………あなたは……」
ぼそりと僅かに声をもらすと、目の前に現れた強く神々しいその存在は、惜しげもなく輝かしい光を放ちながら、
細く瞳を歪めてみせた。
「…………記憶…、確かに受け取りました……。
…10年前の俺は…、いまよりずっと幼くて、あんな行動しか取れなかったけど………、
―――…でも…!俺にはハヤトがすべてなんです……!!
……いまも昔も……、それだけは、どうしても分かってほしくて………。
…もう、離れることなんて……、俺には怖すぎて考えられないから………」
――ぐっと力を込めた指先が、真っ白になった。
小さく肩を震わせながら、今にも泣きそうに顔を歪めた綱吉を、10年前といくらも変わらない美しい毛並みの獣は、
微笑ましそうに、あの時とは少し色の違う、慈愛のこもった瞳で見つめると、
『―――……だ、そうだが……。
おまえは、本当にしあわせものだな………』
と、低く囁いて、ゆっくりと視線を綱吉の遥か背後へと向けたのだった。
「――……えっ…?」
ゆるく歪んだままの瞳の動きを追って、綱吉が身体をひねり背後を振り向けば、
そこには、顔を真っ赤に染めた大切な彼が、くやしそうに唇を強く噛んで、白い狐を睨みつけていた。
「―――……ハヤト…」
きょとん、とこぼれ落ちそうな琥珀の瞳が、愛しい彼の姿を捉える。
しかしそれがわずかに濡れているということに気付いた彼は、
小さく舌を鳴らすと足早に2人のあいだに躍り出て、小さな身体を己の背中に隠してしまった。
「…………おかしいと思ったんだ…」
「……ハヤト…?」
見た目よりも細い、しなやかな身体から発せられた声音は、普段聞きなれたものとは違って、
ピリッと空気を震わせる、冷たい怒気にあふれていた。
「あんなにハッキリ、俺のこと覚えてたコイツが……、
やっと再会できた時にゃ俺のことなんざ全く知らねーような顔してやがるし……!?
―――…しかもあんた、俺の姿が見えないように、おかしな術、ずっとコイツに掛けてただろ……!?」
「――…えっ…?」
「おまえ、記憶無くしてから、何度かこっちに遊びに来てただろ…?」
「…う、うん」
確かに…、10年前のあの日からも、毎年では無かったけれど、数度、両親と共にこの町を訪れていた。
その時も、彼は自分に会いに来てくれていたとでも言うのだろうか……?
「――……そのたびに俺は……、周りの人間に気付かれないようにそっとおまえに接触してたんだ……。
でもおまえは……! 俺の姿なんか見えねぇみてーに、視線すら合わせてこねぇし……。
挙句の果てには、俺のいる目の前で、ムカつくクソガキがおまえのことを掻っ攫って行きやがった………!」
ぎりぎりと強く噛みしめた形のよい唇に、赤い血がじわりと滲んだ。
そしてぽたりと地面に落ちたそれは、みるみるうちに土に吸い込まれて見えなくなった。
「………ハヤト……」
「……俺もどうして気付かなかったんだ………!
こんなの…!簡単な事じゃねーか………!」
始めて見る、怒りと痛みを露わにした彼の姿に、綱吉は心がざくざくと切り刻まれるような痛みを覚えて、
目の前にあった彼の手のひらを、咄嗟にぎゅうっと握り込んだ。
記憶や何もかもを無くしていた綱吉に比べて、転生してきた愛しい存在を目の前に認めながら、
触れることすらかなわなかった彼の心の痛みは、あまりに大きなものだったのかもしれない…。
まるで視線で射殺してしまおうかとでも言うように、強い殺気を放つハヤトを、
白い狐はただ小さく尾を揺らしただけで傍観を決め込んでいたようだったけれど、
その横で不安そうに視線を揺らす綱吉を見とめると、
『………ふぅぅ…』
と、仕方なさそうに、細く長いため息を吐いたのだった。
『―――…私を恨むのはお門違いというもの……。
……仕方なかろう?これもあの方が決めたこと。私の意志も、おまえの意志も、知ったことではないのだよ……』
「……!?」
なかば吐き捨てるようにつぶやいた狐は、先程綱吉を包んでいた霧の塊に視線を投げ、
『――……おいで』
と、静かに尾をひと振りすると、そちらに向かって身を乗り出した。
(――…すっかりハヤトの怒気で忘れてしまっていたのだけれど、先程からずっと、蛍のような小さな光が、
まるで離れたくないとでもいうように、綱吉の頭上をふわりふわりと舞っていたのだった…)
――優しい声に呼ばれた光は、ちいさく弧を描きながら、狐めがけて静かに落下してゆく。
そして、その鼻先に触れるか触れないかという所でぴたりと動きを止め、突然ピシピシっと硬質な音を立てたかと思うと、
次の瞬間には白とも虹色ともいえぬ輝かしい光を放ちながら、よく見慣れた涙型の石へと姿を変えてしまったのだった…――。
「――……あ、……それ…」
思わず声を上げた綱吉に、石はポンっとはじけ飛ぶようにして弧を描き、
なんと自らその手のひらに飛び込んできた。
「わっ…!」
咄嗟に手を出して受けとめてはみたものの、手のひらの中のつるりとしたそれは、ほんのり熱を持っていてあたたかかった。
――…そしてわずかに入る、虹色の輝き。
(……やっぱり、首に掛けてるのとよく似てる……。
並べたら、どっちがどっちだか分からないかもしれない……)
石に見入ったまま微動だにしない綱吉を、狐は可笑しそうに口もとを歪め笑うと、
『……大切にしなさい。
記憶の入っていた器だが、多少は力がある。
ハヤトにでも預けておくといいだろうよ……』
そう言って静かに腰を上げ、やわらかな動作で社に向かって踵を返した。
「――…あっ!おいっ……!」
『――…仰せつかった仕事は済んだ………。
あの方を恨むでない。……きっと、良きように計らってくださる』
そう言い残して、あっという間に身体を闇に溶け込ませ、
きらきらとした星を残像のように残しながら、満月の輝く闇夜へと消えてしまったのだった…――。
「…………」
「…………」
そして残されたふたりはというと……、
本当は聞きたいことやら言いたい事やら山ほどあったのだけれど、当の本人が一番に戦線離脱してくれたことで
なんとも毒気を抜かれてしまい、
「…………、場所、変えるか……」
「……うん」
仲良く手をつなぎ、ふらりふらりと身体を傾がせながら、静かにその場を後にしたのだった。