満月が頭上で煌煌と輝き、夏の終わりを知らせる虫達の鳴き声が響く、夜11時過ぎ。
綱吉は祖母が就寝したことを確認するとそっと布団を抜け出し、
夜の湿った空気のにおいのする庭先へと足を下ろした。
草や枝を踏んで音を立てないように、綺麗に手入れされた花壇を迂回して
そうっと戸口へ向かう。
3日間続いた稲荷山の夏祭りも2時間ほど前に終わりを迎え、
つい昨日までは夜中でも響いていた笛や太鼓の音が、今はどこにも聞こえない。
あんなに熱く、楽しそうに騒いでいた人々の声すら、今までのことがまるで夢だったかのように
儚く消え去って、辺りはしいんと静まり返っていた。
ここ数日人の往来が激しかった稲荷山へと続くこの道も、今日はただ誰もいないその頭上で、街燈が消えたり付いたりをくり返している。
「―――……ハヤト、お待たせ。
……………。
――…ねぇ、ハヤト、…いないの……?」
いつもなら待ちかまえていたように姿を現す彼にと、暗闇の中へ声をかけてみたけれど、
それは少し空気を震わせただけで、夜の沈黙の中へと消えて行った。
「………? ハヤト……?」
ふるふると首をめぐらせて闇の中を探るも、人の気配すら感じない。
(………どうしたんだろう…、ハヤトが約束をすっぽかすなんて、そんなこと絶対にあり得ないし………。
…上司って人と、何かあったのかなぁ……?)
暗くのしかかるような夜の闇の中、しばし考え込むように頭を捻っていると、
―――…ふいに、小さな囁きのような、虫の羽音ととも思えるような微かな音を、綱吉の耳がとらえた。
(―――……ん?)
それはまるで小さな鈴を転がしでもしたかのような、高くも儚い響きだった。
「…………これ……」
(――…俺、知ってる………?)
いつだったか……、確かに聞いた覚えのある、……そう、懐かしい音………。
「―――……あぁ、そうか………。あの時の…―――」
8日前、病み上がりの身体から抜け出して、あちら側の世界へ行ってしまったあの夜に、
夢うつつの中で聞いた音とも声ともつかないような、不思議な音色。
―――…そう、あれと、綱吉がいま聞いた響きは、とてもよく似ているようだった。
首を捻ってどこから響いて来たのかと、そのありかを探る綱吉の耳に、また鼓膜を震わせる響きが届く。
ふわり、ふわりと絶え間なくくり返されるその音色は、まるであの時に見た蛍が放つ、光の点滅のようだった。
「―――…あっちだ」
耳をそばだてて音の出所を探っていた綱吉は、目の前にそびえる山の頂を見上げると、
ためらいもせず、闇に沈んだままの社に向けて、石の階段をのぼりはじめた。
はぁはぁと綱吉が額に汗を浮かべて階段を上りきると、三日間夜も眠ること無く執り行われた稲荷山の境内は、
今や人っ子一人おらず、普段と同じで静かな、石の狐たちの眠る箱庭へと戻っていた。
夕方に祖母と火のついた線香を手に、先祖を送りにここへ来たときには、境内の中に大きな櫓が置かれ、
それに火が灯されたところだった。
ぶわりと巻き起こる炎が造り出した白い煙と、人々の手に握られた線香の白煙に乗って、故人は来年の再開を願いながらも
大きな空へと帰ってゆく。
綱吉は白く煙る夕暮れの空を見上げながら、
「―――……あぁ、今年も夏が終わる…」
と、側にいない彼を想ったのだった…。
あの時の櫓はすでに撤去され、明かりの落とされた境内はしっとりとした空気と濃い木々の匂いに満たされていた。
満月の明かりを頼りに石畳の上を進んでゆくと、先程から聞こえてくる不思議な響きに乗って、
どこからともなく一匹の蛍が姿を現した。
(―――…あ、あれ……)
社の前をいつかと同じように、ふわり、ふわりと舞いながら儚い光を放つそれは、
ただ、綱吉を呼ぶかのように、絶えずくるくると弧を描く。
なぜか切ない記憶を呼び起させるその光に、綱吉はぎゅっと手のひらを握りしめると、
それに向かって、ゆっくりと足を踏み出した。
近付くにつれて大きくなってゆく響きが鼓膜を震わせる。
それと同時にだんだんと頭の中に白い霧のような紗が掛かってゆき、自分の意識とは関係無く
不思議な映像の切れはしが頭のすみで再生されるのを、綱吉はぼやける意識の中で感じていた。
確かに足は動いているのに、自分が今、前に進んでいるのかさえよく分からない。
ただ、徐々に眼前に広がりだした懐かしい景色に向かって、懸命に足を動かす。
―――そして彼が辿り着いたのは、先程いたのと同じ場所。
100匹の石の狐たちが奉られた、夏の日暮れの稲荷神社だった。
(―――……? あれ……?さっきまで夜、だったよな………?)
シャワシャワと、蝉達が木立の中で命を削りながら最後の季節を謳歌する中、
大きな太陽が西の空に赤いえのぐをこぼす。
徐々に青く染まり始めた東側では、うっすらと宵の月が姿を現し始めていた。
綱吉は不思議そうに身体を捻ると、背後を振り返ってぎょっと目を見開いた。
(―――! えぇっ…!?なにコレ……!!
………ここ、もしかして……、俺が知ってる稲荷神社、…じゃ、ない……?)
古びてところどころ欠けたような石像が並んでいる筈だったそこには、
まだ磨かれて間もないような、白く輝く、真新しい石の狐たちが、凛と並んでいたのだった。
よく見れば目の前の社も、遥か後方に見える鳥居も、記憶にある古びたものとは全く違って、
造られたばかりのような美しさを放っている。
(――…?? えぇ…? 何なのここ………。
俺、また変なところに迷い込んじゃった……??)
どうしたらいいのか分からずに、あわあわと視線を周囲に彷徨わせていると、
『―――… !』
ふと、聞きなれた声が、背後から綱吉に向けて掛けられた。
(―――…ハヤト…?)
いつも自分を助けてくれる優しい彼の声に安心して、口の端に小さく笑みを浮かべながら
綱吉が背後を振り返った、瞬間――――、
(―――!?)
綱吉はその人物を目に止めて、あんぐりと口を大きく開けた。
(ええぇぇ〜!? これが、ハヤト……!??)
そこにいたのはおよそ7〜8歳くらいの、狐耳と尻尾を付けたままの、銀色の幼い少年だった。
『―――…おまえ、もう身体はいいのか…?』
彼は足早に近づいてきたかと思うと、綱吉の小さな両手を己の手のひらですっぽりと包み込んだ。
(………ん…? 俺の手、なんかちょっと、…小さいような………)
『うん!今日は外に出てもいいって母さまが言ったから……!』
(……え? 声が勝手に…)
『――そっか、よかったな…!俺もお前がいなくてつまんなかったぜ。
じゃあ、今日は丸池に釣りでもしに行くか…!』
『うん…!』
麻の着物を着たふたりの子供はにっこりと笑みを交わすと、しっかりと手を繋いで鳥居の方へと駆けて行った――。
(……………)
その後ろ姿を見送りながら、綱吉は微かにだが蘇ってきた懐かしい記憶に、小刻みに身体を震わせた。
(―――……あぁ、…そうか、これは…………)
するといきなり目の前の景色がぐにゃりと歪んで、一瞬白っぽく発光したかと思うと、
徐々に細かな模様が見えだして、綱吉はお世辞にも綺麗とは言えないような家の一間に
薄い布団を敷いて寝かされていた。
『――……ねぇ、母さま…。 俺の病気、良くなるかなぁ……?
…俺ね、友だちが出来たんだよ……?また元気になったら、一緒に桜を見に行くって約束したの……』
目の前には、やややつれた様な、哀しげな瞳をした女性が、自分の顔を覗き込んでいた。
『――…えぇ、きっと良くなるわ……!毎日とってもいい子にして、お医者様の言うことをよく聞いているのだもの…。
あなたの病気なんて、すぐにどこかに行ってしまうわよ………!』
優しくて、あたたかくて、哀しい笑顔が俺の顔を覗き込んで、少し冷たい柔らかな手のひらが、するりと頬を撫でていった。
大事なものを愛おしむように、大切なものを手放したくないとでも言うかのように、何度もそれが顔の上を往復する。
彼女の瞳は言葉とは裏腹に、今にも滴を落としそうな程、赤く色づき潤んでいた。
(―――……思い出した…。……俺、はやり病に掛かって………)
それはもう、ずっと、ずっと昔の出来事だった。
この地に自分が生を受けた頃、他の地では未だに人々が醜い争いを繰り広げていた。
戦や貧困で多くの者が命を落とす中、はやり病が国中に伝染した。
この土地の人々はそれらの厄災を退けるため、土地に伝わる狐たちを祭った新しい社を、
一番に村を見渡せる、山の頂に建てたのだった。
(―――……そして俺は出会った……。あの日、彼と――)
この時よりも10年ほど遡った送り火の夜に、母親とはぐれた4つの俺は、境内を泣きべそをかきながら走り回っていた。
『――…母さま…!どこ…!? 母さま……!
――――うわっ…!!』
ズデンと派手に転んだ俺は、ひとりぼっちの悲しさと怖ろしさに、うつぶせに倒れ込んだまま嗚咽を上げ、派手に泣き出した。
――…そしてそのまま、どれだけ泣いただろう…。
ひとしきり泣いて気分が楽になった俺が顔を上げると、目の前に見知らぬ少年がこちらをじぃっと見つめて
座り込んでいたのである。
そして彼は言った。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの俺に。
『――…変なやつだな、お前。 腹でも減ってんのか?』って。
………ホント、笑っちゃうだろ?
でもこれが俺と彼との本当の出会い。
それから知ったんだけど、彼は4年前に生まれたばかりだったんだって。
――…俺と同い年。
それだけで嬉しかったけど、
いつもどんくさくて友だちのいない俺と、新米神様の使いのお狐様が、はじめての友だちになった瞬間だった。
それから彼は、友だちのいない俺を引っぱりまわして、いろんなところに連れだしてくれた。
きれいな花を摘んだり、野山を駆け回って虫をつかまえたり、池で釣りをしたり。
近所の庭先の柿の実をこっそり盗んで、仲良く食べたこともあった。
春も、夏も、秋も、冬も……。
俺たちは許される時間をほとんど一緒に過ごした――。
そして、俺が病に倒れる少し前、俺たちは約束したんだ。
『――…なぁ、冬が開けて春になったら、一緒に桜を見に行こうぜ』
『――うん、…桜?』
『そう。東側の丘の上にでかい桜の木があるの知ってんだろ?
あれをさ、夜見に行くんだよ。スゲー綺麗らしいぜ?』
『……夜? 夜じゃ暗くて見えないんじゃないの?』
『そこはお狐様しか使えないワザを使うんだよ…!
まぁお前は心配すんな!
――来春な!忘れんなよ?約束だぞ?』
『…うん!わかった、約束ね……!』
綱吉が哀しくも懐かしい記憶に意識を持っていかれているうちに、また眼の前の景色が一変した。
(…………あぁ…、これは……)
青白い顔をした俺は、寝巻に身体を包んだまま、彼の腕に抱かれるようにして、月明かりに照らされた宵の空を飛んでいた。
彼の表情は銀色に輝く髪に隠されて、伺い知ることは出来なかった。
しばらくして俺たちが降り立ったのは、あの日に約束した、桜の木の下だった。
季節外れの桜は、日々強まる秋の風に黄色く葉を落として、これから来たる厳しい冬への準備を始めているようだった。
彼はか細い息をくり返す俺に暖かな上着を着せると、その身体を横抱きにして、桜の木の根元に座り込んだ。
『――……ハ、ヤト………?』
『……お前の気配が薄くなったような気がして、急いで来てみたら……――!』
ひんやりとした腕が、ぎゅっと強く、細く薄くなった身体を抱いた。
『……まさかこんなになってるなんて………!』
彼の頬に、ひとすじの雫が伝った。
そんな彼の頬を、ぎしぎしと軋む、同じくらい冷たくなった手のひらで優しくぬぐった。
『……………』
『―――……俺、は、さ………。ハヤトが、会いにきてくれて、………すごく、うれしかった、……よ?』
舌が回らず、途切れ途切れの言葉の途中に、はぁはぁと苦しそうな息が洩れる。
それでも瞳だけは幸せそうに、目の前の彼を、瞳に焼き付けようとでもするかのように、瞬きもせずに見つめていた。
『…………俺、ぜったい、に……、生まれ変わってくるから………。
そしたら、きっと……、いっしょ、に………。…さくら、見にいこうね………?』
額に脂汗を浮かべながら浮かべた微笑みは、とても儚い、白く舞い散る花びらのようだった。
彼はその頬に、ひと撫で大事そうに手のひらを這わせると、
『―――……いま、見せてやる』
そう言って、桜の幹に手を当てた。
『――――…………!』
大きな力を注ぎこまれた桜の木は、白とも銀とも言えるような輝きを幹全体から発し、
まるで季節を早送りでもしたかのように、あっという間に小さな蕾を作ったかと思うと、
可憐な花を枝ぶりたわわに咲かせ、一気に花びらを散らし始めたのだった…――。
――そして、散っては咲かせ、散っては咲かせを、永遠とくり返す。
藍色に沈んだ夜の空に、それはまるで風に舞う、儚い粉雪のような美しさで、
綱吉はその情景をずっと忘れないようにと、心の一番奥底に、深くに刻みつけたのだった。
『――…なぁ……、この桜の木、何て言われてるか、お前知ってるか…?』
『…………うん。……約束、の桜、でしょう………?』
『なんだ、……知ってたのか…』
『………うん…。………すごく、…きれい、だねぇ………』
少しにごり掛かった琥珀色の瞳に映る桜の花びらは、儚くも、強い命の連鎖を感じさせた。
『――……俺、ずっと待ってるからな、お前のこと………』
『………うん…』
『絶対、見つけてくれよ………?』
『……ん』
『…………いままで…、ずっと言えなかったけど………。
――……俺は、おまえを……、愛してるよ、……これからもずっと……―――』
『………うん……、…おれ、も……』
最後に見た彼の顔は、涙を浮かべながらも、とても幸せそうな笑顔だった。
そして俺はその表情に安心したかように、重たい瞼を、ゆっくりと下ろしたのだった……――ー。