気付かぬ間に、頬を幾筋もの涙が伝っていた。
(―――……あぁ、思い出した……、思い出したよ、ハヤト……!!)
あの夜から5日後、俺は優しい両親に見守られながら、あたたかい光の射す世界へと旅立った。
そしてそれからすでに幾百年。
魂の記憶を持ったまま今生に転生した俺は、あの4歳の送り火の日に、
母さんと父さんの目を盗んで、おばあちゃんちを飛び出したんだ。
あの日までの俺は覚えていた記憶をよく口にしていたから、ちょっと変わった子供、とでも思われていた事だろう。
『――ツッくんね、ハヤトに会いに行きたいの』
『――……まぁ、ハヤトくん? ……そんな名前の子、おともだちにいたかしらねぇ……?』
『ちがうよ、おかあさん。ハヤトはね、ツッくんのだいじだいじな人なんだよ?』
『あら、ツッくんにはもうそんな子がいたのね?おかあさんもぜひ会ってみたいわぁ…!』
『………奈々。水を差すようで悪いが、綱吉のだいじだいじな人は、もしかしなくても男の子じゃないのか…?』
『まあっ、あなた…!ツッくんの選んだだいじだいじな人ですもの…!
男の子でもきっといい子だわ。――…ねぇ、ツッくん?』
『うん!ハヤトはね、とっても強くてきれいでやさしいんだよ〜?』
『うふふ、とっても強くて綺麗で優しいのね?
おかあさんも早くハヤトくんに会ってみたいわぁ〜…!』
『…………いや…、奈々、だからな………』
いつかこんな会話を両親と交わした覚えがあるけれど、………子供だけじゃなくて、母親も十二分にズレてたなと、今更になって思う。
10年前の8月15日の夕方、家族の目を盗んで家を抜け出した俺は、小さい身体で必死に石段をのぼり、
かなりの時間をかけて稲荷神社に辿り着いた。
境内の中では送り日のために大きな櫓が設置され、そのまわりをたくさんの人だかりが囲んでいた。
小さな綱吉は、大人たちの波を押し合いへし合いしながらも、本殿裏から境内の東西に延びている細いけもの道まで、
幼い身体が動く限りの場所を、彼を求めて探しまわった。
――しかしそこに彼の人が現れることは無く、それからどれくらいの時が流れただろうか。
まん丸なお月さまが頭の真上で輝きだした頃、疲れ果てた綱吉は木の根に足を取られ派手に転ぶと、
うつ伏せに倒れ込んだまま、ついに大声を上げて泣きだしてしまった。
ほわりと白い光を受けて輝く神社内はすでに人の姿はまばらで、本殿裏の少し奥まった林の中で泣く綱吉のことなど、
気付いてくれる者は誰もいなかった。
――…それからどれだけ泣いていただろう…。
人の声すら聞こえなくなって、仕方なく家に帰ろうかと、涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡れた顔を上げた時、
その潤む視線の先に、何か2本の棒きれのようなものが映った。
腫れた目をこらしてよく見ると、それはただの棒きれではなくて、ゆっくりではあったが、徐々にこちらに近づいて来ているようだった。
――…心の臓が、どくんと大きく跳ねて震えた。
指先は本能的に感じた恐怖に、ビリビリと鈍く痺れはじめて、綱吉がおそるおそる顔を上げた時には、
ほの明るい月の光を頭上から受けて、大きな熊のような姿をした異形の者が、
白く浮かび上がる口を三日月形に引き上げて、自分を見下ろしていたのだった…―――。
――…それから後のことはよく覚えていない。
ただ、心臓に突き刺さるような壮絶な恐怖を感じていた、ということだけは覚えている。
次に気が付いた時には、綱吉はあちら側の世界からこちら側の世界へと、銀色の獣の背中に乗って
金色の満月が彩る夏の空を、だいじだいじな彼と一緒に飛んでいた。
久しく触れることの叶わなかった銀色の背中は、記憶の彼と同じように、ひんやりと冷たくて優しかった。
『――…おいお前、家まで送ってってやっから、名前と住所、言ってみろ』
記憶の彼よりも、ずいぶんと逞しく成長していた彼は、あの桜の木の根下に綱吉を下ろすと
不機嫌そうな表情を浮かべたまま、めんどくさそうに言葉を吐いた。
『……? おなまえ?』
『…そーだよ、名前くらい言えんだろ?』
自分を見つめてボケっと突っ立ったままの子供に、彼は訝しげにシワを寄せた。
『――…いまのおとうさんとおかあさんは、ツッくんって呼ぶよ…?』
『…………、はぁ??』
『……あのね、ぼくのいまのおなまえはね、ツッくんっていうの。
ツッくんのおなまえはね、いまのおとうさんとおかあさんがつけてくれたの』
『………はぁ』
『でもね。ツッくん、ほかにもおなまえがあるんだよ』
子供らしい大きな琥珀色の瞳の奥に、ほんの一瞬、強い炎のようなものを見た気がして、
ハヤトは大きく目を見開いた。
『―――ツッくんね、ずぅ〜っと前は って呼ばれてたの』
『―――………!?』
『……ツッくんね、ハヤトに会うために生まれてきたんだよ……?
――……もしかして…、わすれちゃったの……??』
『――…!! ……え?、ぁ、いや…………』
『……ふふ。…………ちゃんとおやくそく、まもったでしょう…?
――…ハヤトとのおやくそく、おれ、わすれなかったよ………!』
『 !!………』
微笑みを浮かべながらも、子供の目に浮かんだ子供らしくない痛みの色に、
彼はそのすべてを悟って、淡く輝く瞳を揺らめかせた。
――…頭上では、季節外れの桜が銀色の光を受けて、桃色の花を風に揺らしていた。
それが俺たちの、2度目の出会い。
そしてひとしきり桜の下で彼と戯れた俺は、再びハヤトの背に乗って家路へと着いた。
しかし以前の記憶があるとは言え、身体の造りが小さな子供のままの俺は、久しぶりに帰ってきた祖母の家なんて覚えているはずも無くて、
ハヤトは人に見つからぬよう町の頭上を低めに旋回すると、俺を探しに出ていた父さんと母さんの近くに、そっと下ろしてくれのだった。
―――…そして数日後。
どうしてももう一度、ハヤトに会いたくなってしまった幼い俺は、またしても両親と祖母の目を掻い潜って家を抜け出した。
しかしそれは簡単なことではなくて、小さな綱吉はこれが最後のチャンスだと、おぼろげにも薄々感じていた。
先日の祭りで綱吉をひとり迷子にしてしまったというトラウマからか、両親たちは自分をいつも以上に注意して見るようになった。
何をするときも絶対にひとりにはせず、必ず誰かがついて回る。
普通の子供ならそれがあたり前で、両親が横にいてくれることを喜びこそすれ、煩くなんて思わないだろう……。
――…でも綱吉は違った。
自分には遠い過去の記憶まであって、この器は子供でも、持っている心は大人とたいして変わらない、
大切な人を想う気持ちを知っているのだ。
周りの大人たちが自分を見張っている、ということに気付いた綱吉は、それから数日間、大変よい子の自分を演じた。
汚い手だとはわかっていたけれど、彼に会う為には、多少親を騙すことだって仕方がないと思えた。
――…そして一週間後の日暮れ時。
母と祖母が夕飯の支度を、父が綱吉と風呂に入るためにと着替えを取りに行ったその隙に
自分は裸足のまま、縁側から庭へと飛び出したのだった。
ひんやりと冷たさを伝える石段を、後ろを振り向くこと無く必死にのぼった。
………これがきっと最後……。
子供の自分は、ひとりではここまで来れないから。
両親に連れられて並盛の自宅へ帰ってしまえば、次にいつ、彼に会えるのかすら分からない。
(……もうひと目だけ、ハヤトに会いたい…)
長い石段を登り終えると、西の山の端に太陽が掛かり始めたところだった。
はぁ、はぁ、と大きく肩で息をして、暗い影の差し始めた境内を迷いなく奥へと進んでゆく。
心なしか、両脇の狐たちが綱吉を睨みつけているような気もしたけれど、
それは両親への罪悪感がそう感じさせていたのかもしれない。
――…ふぅっとため息をついて、社に視線を向けた、その時……――――、
前方からふいに一陣の風が吹きつけて、綱吉はその風の強さに思わず顔を両手で覆った。
そして、その風に乗って聞こえてきた、男とも女とも言えぬ低い声音に、びくりと肩を震わせたのだった。
『―――……おぬしは分別の分からぬ子供ではあるまい…』
恐る恐る腕を外し、前方へと視線を走らせると、いつの間にか社の目の前に白く輝く毛並みを持った大きな狐が一匹、
淡くきらきらと身体を発光させながら、ぴんと背筋を伸ばしてこちらを見据えていた。
『………こういった事はあまり好きではないのだが………。
まだ時期尚早であろう……。我を恨むなよ…――』
口を開かずとも、直に心に届けられたその声は、あまりの威圧感を持って己の身体を硬直させた。
そして無意識のうちに震えだした身体を抱き締めるようにして、ぎゅっと力を入れた、その瞬間…―――、
はるか前方にいた筈の白狐が、まるで鼻先がくっつくような、すぐ目の前まで迫ってきていて、
綱吉は驚きに目を見開いた。
「――――…!!」
すると、狐は柔らかな仕草で、綱吉の額にちいさな接吻を落としたかと思うと、凛と輝く目で綱吉の心を射抜いてきた。
――と同時に、綱吉は己の身体が、まるでてっぺんからどろどろと溶ろけていくような、おかしな感覚に襲われて、
くず折れるように意識を手放したのだった…―――。
その後綱吉は、どこをどう帰ったのか、気が付いた時には何もかもの記憶を無くして、
いつもと変わらぬ祖母の家の庭先に、何事も無かったかのように独り突っ立っていた。
わけが分からず家に入ると、両親と祖母が「どこにいっていたんだ」と心配げな顔で自分を迎えたけれど、
当の本人がけろりとしている様子に安心すると、「早くお風呂に入っちゃいなさい」と、小さな綱吉をたしなめたのだった。
(―――……ここまでが………、ちいさな俺の記憶………)