次の日。
綱吉はめずらしく、休日なのに朝早くに起床した。
いつもと違う環境だったからかもしれないけれど、………なんとなく、なんとなくだけれど、
誰かに呼ばれたような気がして、ハッと急に目が覚めてしまったのだ。
寝癖だらけの髪をあちらこちらに散らしながら、Tシャツとハーフパンツという簡単な服装にのろのろと着替え、
枕元に置いていた首飾りを手に取った。
そして少し逡巡してから首に掛け、Tシャツの中に入れてしまう。
これなら周りからは見えないし、絶対無くさないし一石二鳥だ。
布団を軽く整えてしまうと、綱吉は祖母のいるはずの居間へと朝食を取りに向かった。
「にゃ〜お」
綱吉が居間に着くと、焼き鮭に卵焼き、きゅうりの漬物に冷ややっこなどが
テーブルの上に並べられていた。
おばあちゃんちは昔ながらの日本家屋で、畳敷きの居間には大きめのテーブルがひとつ置いてある。
普段の食事はいつもここで取ると、なんとなく昔から決まっていた。
「――あら、早いのね。おはようツナちゃん」
「…………うん、おはよう、おばあちゃん」
小さな子供の頃のまま自分のことを『ツナちゃん』と呼ぶおばあちゃんは
小皿に焼き鮭を取り分けると、猫缶のよそられた皿と一緒に「にゃあ」と鳴いた茶虎の猫の前に置いた。
「………あれ?おばあちゃんちって猫飼ってたっけ?」
この家に以前来た時には動物はいなかった気がしたんだけれど。
そう思いながら尋ねると、おばあちゃんはニコッと笑って「この子はこの辺で可愛がられてるノラなのよ」と教えてくれた。
「…ふぅん」
特に興味も無かったが綱吉の家は猫も犬も飼っていなかったし、多少動物がめずらしかったのもあって
食事にパクつく猫をしばらくそのまま見つめていた。
――――すると、急に猫が顔を上げて、綱吉に視線を合わせてきた。
(……あっ…。やっぱり猫も、食べてるのを見られるのって嫌なのかな……?)
そう思ってひそかに首を傾げると、猫は「にゃっ」と一声鳴いて、また食事に没頭しだした。
(………なんか今、猫と意志疎通が出来ちゃったような…………。
気のせいだよね………?)
人生初の奇妙な経験をした昨日の今日だったので、いま目の前にいる猫がもし言葉を喋り出したとしても
あながち不思議じゃないかもな、と綱吉は冷静に考える。
(う〜ん……)
とりあえず、そのへんの事は後で考えるとして、今はお腹すいたしご飯を食べよう…。
軽く頭を振って余計な思考を追い出すと、綱吉は湯気の上がる白米にパクついた。
その日の昼過ぎ、綱吉は稲荷山へと続く参道の階段を、ひとりもくもくと登っていた。
もうちょっと早く出てくれば少しは暑くなかったかなと後悔したが、もう真夏だしあんまり関係ないかと思いなおす。
それに今日は昨日の失敗を教訓に、背中に背負ったメッセンジャーバッグの中に冷たく凍らせた麦茶のペットボトルを持ってきた。
そんなに長居するつもりもないし、たぶんこれだけあれば大丈夫だろう。
―――それより、この階段ちょっと長すぎない……?
ゆうに300段はありそうな長さだ。
今やっと半分まで来たけれど、もう息が上がっている。
おばあちゃんちのすぐ裏の稲荷山には、頂上に立派な神社の社があって
昨日ハヤトが話してくれた100匹の狐が神の御使いとして奉られているらしい。
(……もしかしたらハヤトにまた会えるかも……)
なんてちょっとうずうずする想いもあったけれど、純粋にこの町を一望できる景色と荘厳な神社を見てみたいっていう気持ちが、
綱吉の足を上へと動かしていた。
(――はぁぁぁ〜…、疲れた)
やっとのことで最後の段に足を掛けると、天井では青々と輝く緑が空の明かりを遮って、足もとに色濃い影を創り出していた。
大きく息を吐きながら後ろを振り返ると、眼下に広がる町の景色はまるで米粒みたいに小さく見える。
(うわぁ…!、きれいだ……!)
山の斜面に作られた町には細く曲がりくねった道が所々に通されており、
そのあいだには段々畑のように連なった田畑が、水を引かれて大きな水鏡のように
空の景色を映し込んでいた。
ずっと南の方に見える駅には2両編成のオレンジ色の電車がちょうど入って来るところで、頭上で小鳥がチチチと鳴いている。
並盛とは違う、緑と蒼に覆われた、生き物のいのちが息づく美しい景色だった。
―――しばらく綱吉はそれを眺めていたが、ゆっくりと足を踏み出し神社の中へと歩を進めた。
階段を上がりきったその先では、大きな赤い鳥居が彼を待ちかまえてる。
――そしてその奥、本殿まで続く長い石畳の両脇。
本来なら狛犬が守るその場所に、100匹の石の狐たちが向き合うようにして参拝者を見つめていた。
(………すごい……!)
恐る恐る近付き、その一匹一匹をゆっくり観察していくと、皆少しずつ表情が違った。
目をつぶっているもの、口を少しだけ開けて何かを喋っているようにみえるもの。
特徴的なのはそれだけじゃなくて、よく見ると目の片方や歯の一部、爪の先などに
透明な石のようなものが嵌め込まれ使われていた。
そしてそれが太陽の光を受けてチカチカと虹色の光を返している。
綱吉はその狐たちに一匹ずつ手を這わせて、その背中や額をさわった。
暑い気温の中でも冷たいままのその温度。
しかしそれらは滑らかで、ゆるりとあたたかな丸みを帯びて、
他の神社の狐たちに感じたようなどことなく怖いという感情が、この狐たちには浮かばなかった。
するりと滑らせた手のひらが、そのまま石の台座を滑ってゆく。
すると、雨に侵食されてしまったその部分に、よく見えないのだけれど何か言葉が彫り込まれているのが分かった。
(……う〜ん、消えかけててよく分かんない)
文字の上をなぞるように手のひらを往復させてみたけれど、やっぱりそれを読み解くことは出来ず、
綱吉はそれを諦めて、残りの狐たちに視線を向けた。
そして右側の列のちょうど真ん中あたり。
そこにいた狐の前で、綱吉はふと歩みを止めた。
他の狐たちよりも、ひとまわり小さな狐の像。
少し眇められた左の瞳の中に、半分ほどに欠けた透明な石が嵌め込まれていて、
それは心なしか、じっと綱吉の事を見つめているようにも思えた。
綱吉はゆっくりとその狐の身体に手のひらを滑らせると、両頬を包み込むようにしてその瞳を覗き込んだ。
「―――――――。ハヤト………?」
なぜ彼の事が思い浮かんだのか、自分でもよく分からなかったのだけれど、
どうしても今名前を呼ばないといけないような気がして、この狐が自分に何かを訴えているような気がして、
綱吉は狐の口に自身の額をコツンと押し当てた。
「――――………おい」
するとその石像の後ろ、大きな杉の木の陰から、ざあっっという風の音と共に見慣れた人影が姿を現した。
「―――……ハヤトっ!」
綱吉は彼の姿を見とめるとふたたび会えた彼に、瞳を輝かせて喜んだ。
「…お前、こんなトコで恥ずかしいことしてんじゃね〜よ……!
ったく、なんか安っぽい×××みたいだったぞ………?」
そう言ってこちらへ向かってくる彼の頬は、暑さのせいなのかほのかに淡く染まっていて
声音が徐々に小さくなるものだから、綱吉はそのすべてを聞きとることが出来なかった。
「……? ハヤト、いま何て言ったの?」
「……………、何でもない。
……それよりお前、こんな時間にほっつき歩いて。また昨日みたいになったらどうするつもりだ?」
咎めるように掛けられた言葉は、しかしどうしてか優しい口調のままだった。
「心配してくれてるの?」
感じたままをそのまま口にすれば、彼はますます赤みを濃くした。
(………図星だったんだな。
ハヤトって見かけによらず、反応が純粋だよなぁ………)
うろうろと視線をさまよわせている彼に、綱吉はにこにこと笑みを返す。
「だいじょうぶだよ。今日はちゃんといろいろ準備して出てきたし」
「ほらね」とバッグの中の麦茶を出して見せる。
「―――それよりどうしてここがわかったの?
俺、今日ここに来るって言わなかったよね……?
…………それとも、ハヤトにはなんでも分かっちゃうとか………?」
相手は神様の使いだ。
もしかしたら何でもかんでもお見通しなのかもしれない。
それくらい出来ちゃっても不思議じゃない気がする。
(でも、秘密にしたい事まで筒抜けになっちゃったら、ちょっと困るけど………)
「……別にそんなことねーよ。俺にだって分かんねーことは普通にあるさ。
―――ただ、ホラそれ」
隼人は綱吉の胸のあたりをトントンと指で小突いてみせた。
「お前にやった首飾り。これは俺の目なんだよ。だからだいたいのことは分かる」
「…………ふ〜ん?」
あんまりよく意味が分からなかったけれど、とりあえず曖昧に返事をしておいた。
(……ハヤトの言うことって時々難しくてよくわかんない……)
「―――なぁ、それより今日ヒマだろ?ちょっと付き合えよ」
返事もしないうちに、また昨日のように右手を取られて引っ張られた。
(えっ!何…!? って言うかまた手つなぐの!?
……なんかコレすごく恥ずかしいんだけど、ハヤトは何とも思わないのかなぁ………?)
胸のあたりや繋いだ腕が、なんでかちょっとピリピリするのだ。
……ヘンな感じ。
むず痒いような違和感に、綱吉は唇を固く引き結びそれに耐えた。
すたすたと歩いて行く隼人の後を、綱吉は置いて行かれないようにと急ぎ足で追いかけた。
先程くぐった赤い鳥居のそばまで来ると、彼は鳥居をくぐらず山の裏手の方へと歩みを進めた。
「あれっ?ハヤト、階段降りないの?」
どこに行くんだろうと慌てて問いかければ、彼はくるっとこちらを振り返って
悪戯そうな笑みを浮かべた。
「階段なんて降りんのめんどくせーだろ?もっと効率的な方法で行こうぜ」
そう笑った彼の瞳がニヤリと歪む。
なんていうか、ちょっと怖くて悪い顔。
いたずらを考えついた子供みたいな…。
山の裏手には稲荷神社へ参拝する人たちのために車が通れる道が整備されていた。
綱吉はそこを降りていくのかと思ったのだけれど、当のハヤトはそちらには目も向けず、
その脇に突き出していた、けもの道のような通路を突き進んでゆく。
「ねぇ、ハヤト、どこ行くの?なんかちょっとここ怖いよ」
通っているのは確かに道だけれど、草はボウボウだし腐った木が倒れてるしで
人が使っているようには全然見えなかった。
綱吉は不安になって彼の手をクイクイと引いてみたが、
「大丈夫、大丈夫」
と、彼は全く取り合わない。
仕方なくそのまま後をついて行くと、急に視界の開けた場所に出た。
そこは町の西側を見渡せる、人気の無い断崖絶壁とでも言えるような場所だった。
「――ほら、すげーキレイだろ? 正面から見た景色もいいけどな、
ここは真正面に夕日が沈んでくのが見れるんだ」
「…へ、へぇ〜…!」
ちょっと足もとが不安だったけれど、確かにここもすごく景色がいい。
場所が違っただけでこんなにも雰囲気が違って見えるものなのかと思う。
南側は田畑の景色が多かったけれど、西側の景色はどちらかというと民家が多い印象だ。
足もと見えるあれは、たぶん商店街だろう。
そんなに大きくはないけれど、いくつかの店が集まって軒を連ねていた。
「ここから行くのが一番早いんだ。
夕日はまた今度見せてやるから、今日はあそこに行こうぜ」
「――えっ?」
「危ないからな。―――ちゃんとつかまってろよ?」
「えっ、なにっ? どこ……」
意味が分からずに問いかけようとした刹那―――、
強い突風がいきなり背後から吹き抜けて、彼らの身体はふわりと宙に浮いていた。
―――まるで木の葉が舞い上げられたかのように……。
「ひ、ひえぇぇ〜……」
何が起きたのか分からず咄嗟に隼人の腕を掴んだが、
彼は楽しそうに綱吉を見ると「気持ちいいだろ?慣れたらクセになるぜ」と悪戯そうに笑ったのだった。