夜咲き桜の一件から数日が経過したある日の昼過ぎ。
「ツナちゃ〜ん、おつかい行ってきてくれないかしらぁ〜?」
朝から珍しく宿題を手に取っていた綱吉は、表から聞こえてきた祖母の声に「はぁ〜い」と
いつも以上に気の抜けた返事をした。
教科書にノート、夏休み用に配布された問題集を閉じると
すでに氷の溶けてしまった麦茶をがぶりと飲みほして台所へと向かう。
綱吉に渡されたのは千円札が2枚と、使い古しのカレンダーの裏に書かれた買い物リストが1枚。
「………えっと…、醤油が一本とネギに牛肉200g……、それと豆腐が一丁…」
今日の夕ご飯は肉じゃがだっておばあちゃんが言っていた。
それと冷ややっこ。
どれも綱吉の好物だ。
「ホントはハヤトも一緒に食べられればいいんだけどな………」
坂道を下りながら、ふと真っ青に冴え渡った空を見上げた。
――あれから隼人とは一度も会っていない。
夜中に家を抜け出したあの日は、なんとか日が昇るまでに帰って来られたものの、
昼間はあまりにの眠気がひどく、結局家から一歩も出ずに一日を過ごしてしまった。
そしてその次の日、やっと平常時の思考を取り戻した綱吉は
自分と彼との過去、思い出せない記憶を一生懸命取り戻そうと
一日中頭の中の引出しを片っ端から漁ってみたのだけれど、思っていたような収穫は得られなかった。
………なぜ思い出せないのか。
どうして自分だけ、彼との思い出が抜け落ちてしまっているのか…。
そんなことばかりを考えて過ごしているうちに、すでに数日が経過してしまっていた。
隼人からの連絡は一度も無かった。
当たり前だが彼は人前に姿を現さない。
今さら気づいたのだけれど、綱吉が自分から彼を訪れない限り、ほとんど確率で彼と接触することは叶わない。
(………ハヤト、今頃何してるのかなぁ………)
それにしても、自分は彼の事を何も知らない。
普段どこにいて、どんなふうにして過ごしているのかすら、わからない。
あんなに甘やかされて、あまつさえ恋人のような扱いを受けてしまった後だったから、
こんな事実に綱吉は寂しさとせつなさを覚えた。
「…………。はぁぁ…、なんだかなぁ………」
思い出せない過去にも、はっきりしない彼との関係にも、心が少々参っていた。
商店街でおばあちゃんに頼まれたおつかいをすべて終え帰路に着こうとしていた綱吉は、
先日隼人と一緒に水ようかんを食べたあの店の前で、ふと足を止めた。
店先に備え付けられた竹製の小さなベンチ。
そこに倒れこむように広がった、黄緑色のワンピース。
長く垂れた色素の薄い髪。
服からはみ出した手足はあまりに白く、まるで透き通るようだった。
「…………!」
どう見ても具合が悪くて倒れこんでしまった、という感じの人影。
(………どうしよう…。声掛けたほうがいいのかなぁ……)
人の出入りのある店先だったし、自分が声を掛けなくてもお店の人が気づいてくれるかもしれない、
とも思ったが、ここで知らぬふりをして通り過ぎるのは、いったい人としてどうなのだろうか……。
人みしりの激しい綱吉はしばらくの間困ったように考え込んだが、
辺りに人の気配が無いことに気付くと、勇気を出してその人に声を掛けた。
「…………あ、あの……、だいじょうぶ、です、か……?」
声は少し震えていた。
……情けない…。
細くて華奢な肩に手を添えると、その人は弾かれたように顔を上げ、驚いたような顔で綱吉を見つめた。
顔は青白く血の色が失せていたが、色素の薄い瞳が印象的な美人だった。
「あ、あの……、俺、よかったら誰か呼んできましょうか……?」
ここは暑いし、出来れば建物の中に入ってしまった方が良い。
こんなところでは休まるものも休まらないだろう。
心配そうに手を差し出した綱吉を、しばらく意味ありげな様子で頭のてっぺんから足の先まで視線を動かし見定めるようにしていた彼女は、
咄嗟に青白い顔をキュッと歪めて微笑んできた。
「…いいえ、大丈夫です。ご心配無く……。
…それよりも、もしあなた様がよろしければ少し肩をお借りしてもよろしいでしょうか…?」
「……えっ? 肩、ですか……?」
(休憩するのに肩を貸してほしい、ってことなのかな……?)
意味が分からずきょとんと首を傾げた綱吉に、依然彼女は微笑んだまま続ける。
「はい、実はすぐ近くに姉が住んでおりまして、その家に着くまでの間支えになって頂けないかと………。
近頃あまり食べ物を口に出来なかったせいでこのようなことになってしまい大変お恥ずかしいのですが、
もしあなた様さえよろしければ………」
女の顔は今にも倒れてしまいそうなほど弱々しく、断るのは何とも憚られた。
(食べ物を口にしてないって夏バテか何かかな……?)
本当は病院に行った方がいいんじゃないかとも思ったが、……まぁ、近くに家族がいるのならそちらに任せた方がいいのかもしれない。
おつかいも急ぎの用では無かったし、しばし悩んで綱吉は彼女の願いを聞き入れた。
「お姉さんの家はどちらなんですか?」
彼女は少々ぐらつきながらも立ち上がると、綱吉の肩に手を添えてきた。
思っていたよりもずっと強い力で肩を掴まれた。
こんな力がこの細い身体のどこに残っていたのだろう…。
……指が食い込んで、すこし痛い。
「…ここから5分ほどで丸池という大きな池に着きますわ。
姉の家はそのすぐ近くです」
(…………? ここの近くに池なんてあったかなぁ………?)
少し疑問に思ったが、とりあえず彼女の説明に従って商店街沿いの道を奥へ奥へと上がってゆく。
「……もう少しですわ。ここの角を右に入ったら姉の家です」
そう言われて足を進めた右手の道は今までの舗装された道路と違い、ずっと向こうまで砂利道で、
竹林のような深い木々が道を覆いつくすように広がっていた。
歩きにくいのではと彼女の手に掌を添えると、それは真夏の炎天下の中でもひんやりとして冷たかった。
(……ハヤトの手とおんなじだ………)
こんなことでも彼の事を思い出してしまい、綱吉はこっそりと頬を染める。
しばらく行くと道の先にキラキラとした輝きを照り返す、大きな池が見えてきた。
「……あぁ、あれです。あそこに姉の家が……。あなたもお疲れでしょう。
もしよろしければ、お礼と言っては何ですが、冷たい飲み物でも召し上がって行ってくださいな。
きっと姉が用意してくれますわ」
彼女は今までの覇気の無さがなんとやら、随分としっかりした足取りで綱吉を促すように手を掴んできた。
「……い、いえ、そんな……。俺は大したことはしてませんし、……あまり遅くなると家の者が心配しますから……」
(大体、こんなところに家なんてあるのかな……?竹林しか見えないけど……)
ざわざわと木々を揺らす風音に不安が募り、彼女の手を振りほどこうとしていると―――、
「―――あれ、そこにいらっしゃるのは綱吉さんじゃありませんか」
間に入ってきたしゃがれた男の声に、ふたりの会話はそこで断たれた。
(…………誰……?)
にっこりと微笑んでふたりに近づいてきた初老の男はやや強引に女の手から綱吉をうばい取ると、
「こんな山奥まで来たら道に迷って帰れなくなってしまいますよ。
ささっ、おばあさんの家まで私が送って差し上げましょう」
そう言ってそのまま池に背を向け、さっさと歩きだしてしまった。
「…えっ? …あの、……あの女の人は……?」
展開についていけずにおろおろする綱吉に、男はニコッと笑みを向けると
「あの人なら大丈夫ですよ。家はもう目と鼻の先ですからね。お姉さんが迎えに出るでしょう」
「さあ早く帰りませんとおばあさんが心配されますよ」と先を促したのだった。
「ただいま」
門の前で男に礼を言って別れると、おばあちゃんが縁側で洗濯物を畳んでいた。
「あら、おかえりなさい。暑かったでしょう。途中で具合が悪くなってないかと心配していたんですよ」
そう言って冷たく冷えた麦茶と和菓子を用意してくれた。
――するとどこからか又吉もやってきて、縁側にごろりと転がり毛づくろいを始める。
「まだ夕飯までには時間がありますからね。ちょっとお茶にしましょう」
祖母に心配を掛けてしまったことを申し訳なく思いつつ、綱吉は居間のテーブルに落ち着いて、祖母と一緒に庭を眺めながらそれを食べた。
「……そういえばさっきさ、商店街で具合の悪そうな女の人を見つけて、家の近くまで送ってあげたんだけど………、
おばあちゃん、丸池っていう大きな池知ってる?」
猫の髭がぴくりと動く。
何気なく話題を振ると、祖母は和菓子を口に運びながら
「えぇ、知ってますよ。商店街の道を上がって行った山の奥の方にある池ね。
あれは別名で『月夜が池』って言う池なんですよ」
と教えてくれた。
「……へぇぇ、つきよが池……?」
「えぇ。なんでも月の晩にあの池に行くとね、お月さまがふたつになったみたいに水面に大きな月が浮かぶらしいんですよ。
それで、その月の中に飛び込むと異世界に行けるとかどうとか……。全くの迷信ですけどね」
ふふふと笑いながらお茶をすする。
「この町には数えきれないほど不思議な言い伝えがたくさんあってね。
……そうそう、ツナちゃんは約束の桜の木って知ってるかしら?」
「………? わかんない。桜の木なら稲荷山の東の方におおきいのがあるよね」
首をひねって傾げると、おばあちゃんはちょっとびっくりしたような顔で綱吉を見た。
「―――あら、知ってるんじゃないの。それよそれ。
昔の昔。まだ日本が国中で争いをしていた頃の話ね。
戦に行く男とその許嫁の女がね、桜の木の下で再会を誓い会ったのよ。必ずまた生きて会いましょうって……。
それからその女は毎日のように桜の木に通ったんですって。……要は願掛けをしたのね。
そしてふたりはその後再会を果たした。それからその木は『約束の桜』って言われるようになったのよ」
遠い目をして幸せそうな顔をした祖母を、綱吉は珍しいものでも見るように眺めた。
「………ふぅ〜ん……」
「あの木の下で約束を誓うとね、必ず願いが叶うのよ。
―――そう、その想いが強ければ強いほどね」
にっこりと微笑んだ祖母の顔は、まるで若々しい少女のもののようだった。
「……そういえば、ツナちゃんがもっとずっと小さい頃、……あれは4歳くらいだったかしらね……?
桜の季節でもないのに桜の花びらをくっつけて、ひとりで帰ってきたことがあったのよねぇ……」
「……………?」
「お盆のお祭りの最中であなたがいなくなっちゃってね。
大慌てでお父さんとお母さんと、終いにはご近所の方々を巻き込んで皆で探したんですけれど見つからなくて……。
夜で辺りは暗いし誰かに攫われたんじゃあないかって、警察に届けを出そうとしていたら、玄関からひょっこり帰って来たんですよ。
――…びっくりしましたけどね。
どこを探してもいなかったのに、あなたは桜の花びらをくっつけたまま嬉しそうに笑っているし。
…大方、稲荷山のお狐さまにでも助けて頂いたんじゃあないかって収まったんですけれど。
……ツナちゃん、覚えてるかしら?」
懐かしそうに目元を緩めた祖母に、綱吉はゆっくりと首を振った。
「…………ううん、……覚えてない……」
「―――そう、まだ小さかったものね。仕方がないわ。
それじゃあ私は夕飯の支度をしちゃいますからね。ツナちゃんはもう少しゆっくりしてて頂戴」
おばあちゃんはゆっくりと腰を上げると、台所の奥へと消えていった。
(――…今の話は本当だろうか………?
いや、おばあちゃんが嘘付くなんて絶対あるわけ無いし…………。
季節外れの桜って言ったら、やっぱりあの『夜咲き桜』しかない、よな……。
4歳の俺は祭りで迷子になったあと、誰かに連れられてあの桜の木のある丘まで行ったんだ。
――…そして無事に帰ってきた………)
―――夏の1日は長い。
もう5時過ぎだというのに全く暗くなる気配すら無い。
縁側で猫又が大の字になって眠っていた。
庭のイチョウの木の陰でカナカナゼミが鳴いている。
綱吉はハヤトとの過去を、少しだけ掴んだような気がしていた―――。