明くる日の昼前。
綱吉は町の集会に出掛けると言う祖母を玄関まで送っていた。
「――じゃあ、夕方までには帰ってきますから、どこかに出かけるときは戸締りを忘れないでね」
「うん」
「お昼御飯は冷蔵庫の中に冷やし中華が入っているから、タレを掛けて食べて頂戴ね」
「うん、おばあちゃんも気をつけてね。行ってらっしゃい」
手を振って見送ると、おばあちゃんはお隣のおばさんと一緒に商店街にある集会所まで出掛けていった。
「…………ヒマだなぁ…、ハヤトに会いに行こうかな…」
もう5日以上彼に会っていない。
本当は会いたくて寂しくて仕方が無かったのだけれど、会ったらこの間の事を思い出して始終赤面していなくてはならなそうだし、
――…何よりも、自分はまだ彼とのことを思い出せていない……。
(………ハヤトは俺に思い出して欲しいんだろうな………)
だからどんなに会いたくても、中途半端なままの自分が彼に会いに行くのはとても悪いことのような気がして、
どうしても足が動かなかったのだ。
……はあぁぁ、とこぼれる大きなため息。
台所へ行って冷蔵庫を開ける。
今朝おばあちゃんが切っておいてくれた冷えたスイカを手に居間に向かうと、
テーブルに着いてそれを口に運んだ。
(………あれ……?)
さっきおばあちゃんを見送った門扉の前に誰かが立っている。
「…誰だろう?」とスイカをテーブルに置きっぱなしのまま靴を引っ掛けて外へ出ると、そこには昨日丸池まで送ったはずの女が
昨日とおんなじワンピースを着て立っていた。
「……あ、きのうの………」
「こんにちは、綱吉さん。昨日はどうもありがとうございました。
お陰さまで体調も良くなりました。
――…それで、昨日はお礼が出来ませんでしたので、もしよろしければ我が家にご招待したく、今日はお迎えに上がりました」
女は昨日のように青ざめた顔はしていなかったが、依然真っ白な透けるような肌で笑って見せた。
「……え、俺、…お礼なんてされるほどのことしてないし………」
「いえいえ、あなた様の大事な時間を割いて助けて頂いたのです。これでお礼も何もしないではわたくしの気が収まりません。
本当に簡単なものしかご用意できませんが、よろしければ一緒にお食事でも………」
いえ、だからそんなのいいです、と言葉を運ぼうとした綱吉は、その女の目を見て固まった。
薄い色の瞳がぼんやりと発光している。
(………これもハヤトとおんなじ……)
ってことは、この人も人間じゃないのかな………?
次第に痺れ出した四肢に、綱吉の本能が警鐘を鳴らす。
もしかしてこれってマズイ展開……?と思っているうちに意識がふうっと霞んできて、綱吉の意識は闇の奥底に沈んでしまった。
「………ん………」
頭痛を覚えた頭を押さえながら何とか身を起こすと、そこは昨日も来た丸池のほとりだった。
(………あれ? ……なんで俺こんなところにいるんだっけ………?)
ぼやっと霞みがかかったような思考を持て余して辺りを見回したが、人っ子ひとりいない。
どうしたものかと考え込んでいると………。
―――ふと、池のふちから黄緑色の小さな蜘蛛が這い出てきて、綱吉の足もとを2周ほどくるりくるりと回って
また池の中へと消えていった。
(………? 何だったんだろ、今の……)
とりあえず家に帰ろうと重い腰を上げる。
「…うわっ……」
ふらりとよろけて横にあった木に咄嗟につかまった。
まだうまく身体に力が入らないのかと思ったのだけれど、これくらいならまぁ歩けないほどじゃないし大丈夫かなと足を踏み出そうとしたら、
「――――……? あれ…? 足が、動かない……」
まるで地面に縫い付けられてしまったように、両の足が地面から離れない。
「えっ?な、なに…?」
必死に身体をばたつかせるけれど、足だけ、自由がきかないのだ。
――…すると、もがき始めた獲物を引き込むように、動かない足から、なぜか池の方へと引きずられ始めた。
「う、うわっ……!」
そのまま地面に倒れ込んで、ゆっくりと身体が土の上を滑ってゆく。
足に何かが絡まっているような不思議な感覚にそちらを見ると、細く透明な糸がきらきらと銀色の光を返していた。
(……これって……、もしかして蜘蛛の糸………!?)
ずるずると引きずられながら、糸を取り外そうと手を必死に動かしたらピピっと鋭い痛みが指にはしった。
「……ひっ………」
掌を目の前にかざすと、人差し指と中指に鋭利なナイフでつけられたような鋭い傷がついていて、つうっと血が流れてゆく。
……全身から、冷や汗が急に噴き出した。
(―――…まずい……、このままじゃ池の中に引き込まれちゃう………!?)
地面に爪を立てて必死にもがくけれど、引っ張られる力が強すぎて爪の中に土が食い込んだ。
「……だ、だれか……!だれかいませんか……!?……だれかっ……、誰かたすけてっ………!!」
大声で叫んでみても池の周辺は静かなもので、自分の声が竹林の中に響いただけだった。
「つうっ………」
恐怖に目の前が滲んでゆく。
綱吉はTシャツの下に隠していた首飾りを取り出すと、それを力いっぱい握り込んで
今一番会いたいと思っている彼の名前を震える声で呼び続けた。
「…ハヤト……、ハヤト、たすけて………」
自分の引きずられた痕が地面にまっすぐ伸びてゆく。
「…ハヤト……、俺はここだよ……。お願い、助けに来てっ……!
…ハヤトぉ、……ハヤト―――……!!!」
足先が水に付いて、冷たい感触を伝えてきたと思ったら、そのまま一気に水の中に引きずり込まれた。
水面が大きな水しぶきを上げて波紋をつくる。
ちゃぷんちゃぷんと揺れる水音がしばらく辺りに響いていたが、次第にそれも林の中に飲み込まれてゆき、
ぷくぷくと細かく泡立つ水面だけが、綱吉がここにいたという痕跡を残していた。