その日の晩。
いつもより早く床に入ったはずの綱吉は、なぜか稲荷山へ続く階段の真ん中あたりで佇んでいた。
(――……あれ? 何で俺こんなところにいるんだっけ……?)
ん?、と思わず首をひねる。
確か今日はまだ熱があって、ずっと布団の中に入っていた。
途中又吉と話をしたりしたけれど、一度も外へは出ていない筈。
そして夕飯を食べ終え風呂の代わりにと身体を拭き、歯を磨いて早めに布団に入ったはいいが、
(……そう、なかなか寝付けなかった)
そして仕方なくお決まりのようにモコモコとしたあの生き物を数えていたら、400を過ぎたあたりから記憶が曖昧になってきて、
待ち望んでいた眠りの中へと、自分は落ちていった気が、するのだけれど……。
(―――……そうだ、俺、何かに呼ばれたような気がして………)
まるで脳みそに直接語りかけられるように、頭の中に音とも声ともつかないようなものが注ぎ込まれて、
それは淡くやわらかな光を持って、まるでちいさなホタルがふわりと舞うように、暗く沈んだ意識の中にちいさな星を灯した。
――そして、なぜか懐かしさを感じるそれに、自分はふいに手を伸ばしたんだ……―――。
「―――ヤバい、俺、靴履いてない……」
ひんやりと伝う冷気に足もとを見下げれば、自分は薄手のパジャマにはだしという何ともおかしな格好でその場に突っ立っていた。
「……ホントなんなの?ここ来てから変なことばっかだよ……」
はぁぁっと大きなため息をついて、チカチカと輝く星々を見上げた。
重たい雲が東の空に掛かっていたけれど、それ以外はいつも以上に綺麗な星空が、頭上に広がっていた。
視線を下ろして辺り見渡すと、眼下に見えるはずの家々は、全くの闇に溶けて確認出来ない。
(……おかしいな…、街燈の明かりがひとつも見えないなんて……)
いくら地方の田舎町だからと言って、普通どこかしらに明かりはついているものだろう。
それなのに、眼下に見えるはずの景色は、よどんだ靄に包まれてしまっているようにも見えた。
――…心の隅に不安の影がちらつき始める。
(…………、とりあえず…、ワケ分かんないし家に帰ろう)
ここが稲荷山への階段なら、少し下ったすぐ右手におばあちゃんちが見えるはずだ。
足裏に感じる石の冷たさを少々心細く感じつつも、一歩一歩、ゆっくりと石段を降り始めた、――…その時、
闇に溶けるようにして微かに響いてきた声に、綱吉の心臓がひとつ、大きく鼓動を打った。
(――……!?)
考えるより先に身体が動いて、綱吉はとっさに石段脇の木影に身を隠した。
耳を澄ますと、確かに人の話し声のようなものを、ちいさな耳が捉える。
辺りは見渡す限りの真っ暗闇で、こんな時間に参拝者が来るとは思えなかった。
――…しかし親しく会話をするような声はだんだんと大きくなり、おぼろげな輪郭を形作ってゆく。
冷や汗でぬめる両手をぎゅっと握りしめて、綱吉はふと呼吸を殺した。
――……すると、ほの明るい灯りがゆらゆらと左右に揺れながら、辺りの景色を照らし始めた。
(………懐中電灯の明かりじゃない。…………、ちょうちん?)
ふわりふわりと近づくそれに、自分の心臓がバクバクとうるさい音を立てる。
(………うぅ、何か嫌な予感がするよ……)
こちらに来てからというもの、不可思議な思いを片手では数えきれないほどしていた綱吉の感が
これはきっと危険だと警鐘を鳴らす。
―――…そして、ゆっくりとだが目の前を通り過ぎて行った人影に、悲鳴を上げそうになった綱吉は慌てて口をふさいだ。
(――――…!!? …な、なにあれ……!?)
ほんの数秒だったけれど、確かに己の瞳はそれを捉えていた。
――…はかま姿の男がふたり、提灯を片手に下げて、さもおかしそうに談笑しながら階段を上って行った。
まぁ、時代錯誤があるとはいえ、そこまでならどうにか許せる範囲だ。
――しかし、人と同じ姿をした彼らの顔、あれはどう考えても人間のモノでは無かった。
片方は人間よりもひとまわり大きな体躯に、牛の面と頭。そして鬼のように毛むくじゃらな腕と長い爪を持っていた。
もう片方は大柄な猿のような出で立ちで、見た目はテレビで見たニホンザルそっくりだ。
綱吉は手のひらを口に当てたまま、わなわなと震える膝を叱咤した。
(………どうしよう、ここやっぱりおかしいよ……。
――…このまま階段を下りて行っても、家には帰れないかもしれない……)
先程見た光景が頭に焼きついている。
夜中とは言え、人工的な明かりがひとつも見当たらない景色。
人では無いものが、目の前を通り過ぎてゆくという、普通ではありえない状況。
―――…どう考えてもおかしい…。
まるで異世界に迷い込んでしまったような………――。
(―――……、……そう言えば!)
『その月の中に飛び込むと異世界に行けるとかどうとか……。全くの迷信ですけどね』
おばあちゃんが言ってた丸池に伝わる伝説。
綱吉はハッとした表情になって空を仰いだ。
すると、さっき見た時にあっただろうか。空に掛かっていたはずの雲が流れて、
大きな大きな金色の半月が綱吉の前に姿を現した。
(――……、え、え”ぇぇぇぇぇぇ〜………!?)
山ひとつ分もあろうかという程の大きな月が、空のかなり近いところに浮かんでいたのだ。
(…な、なに、このマンガみたいな状況……!?)
綱吉は目をまん丸くしたまま、あまりの迫力のそれに、ついにぽっかり口を開けて放心してしまった。
しばらくそのまま固まっていた綱吉だったが、ふと我に返ると、
(――……と、とりあえず、帰る方法を探さないと………)
恐る恐る茂みから顔を出し、誰もいないことを確認すると、参道の石段を下るのではなく、ゆっくりと上りはじめた。
――石段の先には100匹の狐が奉られた神社がある。
そこに行けばどうにかなるかもしれない。
(――……もしかしたらハヤトに会えるかも……)
今日は寝ていたところを連れてこられた?から、いつも身に着けていた首飾りが無い。
だから彼に助けを求めるすべがないのだ。
(さっきの人たちに遭遇しないように注意して行かないと………)
綱吉は心臓を凍りつかせながらも、ゆっくりと歩を進めた。
――…先程よりも、ずっと視界が明るかった。
大きな半月はその図体に似合わず、空から優しげな光を届けている。
(…あともう少し……)
はぁはぁと息を乱しながら最後の段を上りきり、神社の奥へと視線を向けると、そこには人影さえ無かったけれど、
大きな提灯が本殿の前に二つ、そして一番手前に座する狐の横にひとつずつ、計四つの炎が灯されて煌煌と光を放っていた。
(………うわぁ、……すごい)
まるで神域にでも迷い込んでしまったかのような、神々しくも清浄な空気。
そして辺りを照らす、やわらかなオレンジ色の光。
綱吉はそれらに圧倒されながらも、まるでそれらに魅せられたかのように、ゆっくりと右足を踏み出した。
―――……すると、
はるか先に見える本殿の社の前で、なにかちいさな光のようなものが「チカリ、チカリ」と不規則に点滅しながら舞っているのが目に入った。
(………、なに…? ……蛍?)
ただひとつ、ふわりふわりと舞うその光は、まるで綱吉を誘うかのようにその場をくるくると回っている。
目を凝らしてよく見れば、動きや輝きから、確かに蛍のようにも見えた。
しかしよく考えれば、この辺りに蛍が住みつくような水辺は無いはずだった。
(―――……)
最初は訝しげな視線を投げかけてした綱吉だったが、次第にその淡い光に魅入られるようにして、
一歩、はだしの足が石畳の上をちいさく蹴った。
……不思議と怖い気配は感じなかった。
まぁ、ここは神域だし、それは当たり前なのかもしれない…。
しかし、それはやけに懐かしくて、あたたかな儚い輝きで、綱吉のちいさな足はペタリペタリと音を立てながらも、ゆっくりと石畳を進んでゆく。
その間にも、ちいさな蛍は淡い光を纏いながら、綱吉を呼ぶかのように、くり返し舞い続けていた。
なぜか胸の内から湧いてくる泣きたくなるような郷愁の念に、綱吉は突き動かされるようにして、ひとまわりちいさな石の狐の前を通り過ぎた、
………――、その時。
「――……おいっ!」
ふと、背後から声を掛けられた。
「…?」
少々陶酔したかのような頭のまま、声の主を振り返った綱吉は、その姿を見とめて大きく目を見開いた。
「――……、ハヤト……!」
ぼんやりと霞みがかっていた思考が、ざぁっと音を立てて鮮明になる。
「おまえ、こんなとこで何やってんだよ……!?」
近付いて来るなり吐き出された、まるで咎めるような一言に、一瞬肩がビクリと揺れた。
(――……そう言えば、俺………)
階段を上りきるまでは彼のことを考えていた筈だったのに、いつの間にかすっかり頭から消えていた。
(…何だったんだろう、今の……)
ふと振り返ってみたけれど、先程まで見えていた筈の光は、すでに確認できなかった。
「―――……」
まるで希少な蝶を目の前で取り逃がしてしまったかのような、残念で心許ない心境だった。
「――……おまえ、今自分がどんな状況か分かってんのか?」
ツカツカと足早に歩み寄った彼は、瞳に怒りの色を浮かべたまま、そんな綱吉の状況を知ってか知らずか
無遠慮に瞳を覗き込んできた。
「……?」
きょとんとした表情のまま小さく首を傾げた綱吉に、彼は「はぁっ…」と大きく嘆息すると、
「ちょっと手ぇ出せ」と、自身の両手を綱吉の前に差し出した。
何のことか分からずに、しかし素直にそれに従った綱吉は、その瞬間起きたことにまたまた目を見張った。
「…!? ――……えっ!?…何これ……」
彼の手に触れたはずの綱吉の手のひらは、自分より一回り大きなその手を掴むこと無くするりと指の間をすり抜けてしまったのだ。
訳が分からず、もう一度、もう一度と同じような動作を繰り返してみたけれど、結果は同で、
終いにはハヤトに抱きつこうとした綱吉の身体が、ハヤトの身体をすり抜けてしまった。
「……………!」
そのちいさな身体は小刻みに震え、ゆっくりと彼を振り仰いだその瞳は、心細さと驚きからか、じんわりと淡く滲んでいた。
「…………ハヤトぉ……」
「! あぁもう、わかったから泣くなよ……!」
鼻と頬をを赤く染めて助けを求めた綱吉に、彼は降参とでも言うように頭をガシガシ掻くと、ふと冷静な表情に戻って
綱吉の小さな手のひらを、己の手のひらでゆっくりと包み込んだ。
――…すると、綱吉がいくらやっても掴めなかった彼の手が、冷たい温度を伝えながらも、確実に綱吉に触れたのだ。
「………ハヤト、これ……」
「稲荷山のお狐さまが霊体に触れねぇ訳無いだろ?」
「………れいたい?」
「とりあえずお前んち戻るぞ。身体から抜けたまんまってのは、あんま良くねぇからな」
それだけ言うと、彼は綱吉の右手を握ったまま、もと来た道をすたすたと戻り始めた。
そして鳥居をくぐると、めずらしく階段を下りはじめる。
「……ハヤトっ、あの…」
訳の分からない綱吉は、なかば引きずられるようにして石段を下りてゆく。
「――おまえ、どうやってここまで来たんだ…?ひとりでこんなとこまで来れるはず、無ぇよな」
「……?」
「とりあえずこれを辿って帰るからな。ちゃんとつかまってろよ」
彼が示した先には、絹糸のようなきらきらとした細い糸が、月の光を返しながら空の彼方へと向かって伸びていた。
キラリ、キラリと艶めくそれは、ほのかに虹色の輝きを纏うようだ。
―――…すると、ふいに背後から大きな風が起こった。
ハヤトの腕に持ち上げられるようにして大地を蹴った綱吉は、少々危なげなそぶりで風に乗ると、彼の腕を強く掴んだまま
足もとの景色に視線を落とした。
暗く闇に沈んだふもとの景色とは反対に、ぼんやりと淡く浮かび上がる神社の社。
首をひねれば空に浮かぶ、妖しくも大きな美しい半月。
そしてそれが照らし出す、長く冷たい石段。
その下方は闇に溶けて、輪郭すら分からなかった。
――風がざわざわと影を落とした木々を揺らしている。
ハヤトは風に乗ったまま器用に方向転換をすると、それからいくらもしないうちに西の山の中腹にある、大きな池へと降りて行った。
「――……うわぁ…、すごい…きれいっ…!」
丸くたゆたう水面は大きな水鏡となり、金色に輝く半月を、これまた美しく映し込んでいた。
思わずそれに魅入ってしまった綱吉だったけれど、急に増した落下速度に「ひぃっ…!」と小さな悲鳴を上げた。
「飛び込むぞ…!」
「えぇっ!!?」
思わず彼を見上げれば、その表情はいたずらに心を躍らせる子供のように笑んでいた。
(っ! ハヤト楽しんでる……!? ……ちょっと〜!俺、泳げないんだけど……!!)
そんな綱吉の心の叫びなどつゆ知らず、気付いた時には金色の水面が眼前に迫り、彼らの身体は小さな水飛沫すら上げず、
まるで池に吸い込まれるかのように消えてしまったのだった。
――…残された世界には一陣の風と水辺を彩るかすかな波紋。
しかし次第にそれらも形を崩し、夜の空気に溶けて行った………――。