それから三日後の朝。
「おはよう、ツナちゃん。熱はどう?ご飯は食べられそうかしら……?」
綱吉は布団に入ったまま、優しい祖母の声に目をひらいた。
「……うん、ちょっとなら食べられるかも……」
「あらよかった…!じゃあ卵粥を作ってあげますから、もう少し待っててちょうだいね」
ニコニコと嬉しそうに微笑んで去ってゆく祖母の背中を見送った後、綱吉は小さく嘆息した。
あの日以来、綱吉は風邪を引いて寝込んでしまっていた。
夏とはいえ、水の中に頭まで浸かった挙句、びしょぬれの格好のまま風に乗ったりしたせいかもしれない。
それに「悪い気に当てられたから、体調を崩すことがあるかもしれない」と隼人も言っていた。
……まぁ、仕方の無い結果と言えよう……。
綱吉はだいぶ良くなった身体を横向きにして、きれいに整えられた庭に目を向けた。
(………あ、又吉……)
庭の松の枝の上で、見慣れた茶虎の猫がのびている。
そういえば先日帰ってきて早々に、
「あんた、今日水蜘蛛に襲われたんですって……?狐も毎度毎度苦労が絶えませんね」
なんて意味の分からない小言を言われた。
――実は今回の事件、又吉も少々絡んでいるのだが、それを綱吉は知らない。
「――さぁ、お粥が出来ましたから起きていらっしゃい。食べたらまた寝てしまっていいから」
フラフラと足をもつれさせながら布団を抜け出し、テーブルに着いた。
ほかほかと湯気を立てた粥は、ふんわりと卵が溶き入れられておいしそうだ。
「いただきます」
ゆっくりと口をつけると、ほんのりとした昆布のダシのうまみが口中にひろがった。
「……おいしい」
やさしい、おばあちゃんの味だった。
しばらくもくもくと食べ続け空になった皿を祖母に見せると、彼女は小さな子供にするように
「えらかったわね」と言ってほめてくれた。
病気は人を子供にするのかもしれない。
腹も満たされて、もうひと眠りしようと布団に戻ると、さっきまで庭の木の上でくつろいでいた猫が
掛け布団の上にちょこんと座って綱吉を待っていた。
「――…あれ? 又吉も一緒に寝る…? 俺はいいけど風邪うつるかもよ?」
「……あのね、綱吉さん。人間の病気は猫にはうつりませんよ。――…それに昼寝をしに来た訳じゃないですから、ご心配なく。
さぁ、あんたは布団に入りなさい。洋子さんがいらぬ心配をしますよ」
猫は足もとに敷いてある布団を短い前足でぽんぽんと叩いて綱吉を促した。
彼は素直に布団に身体を滑り込ませると、身体を横にして猫をあおぎ見る。
「ねぇ、…そういえば又吉、この間のこと、ハヤトから聞いたの……?
蜘蛛がどうとかって言ってたよね?――…それって俺を襲った妖怪のこと…?」
布団から顔だけ出して問い掛けると、猫は急にきょとんとした顔になって綱吉を見返してきた。
「……狐から何も聞いてないんですか?…自分を襲った者のことも?」
「――…う、うん…。あの時はそういう話になる前に帰ってきちゃったから……。
ハヤトも「心配無いから早く帰って休め」ってうるさくて」
「――……ふ〜ん、そうですか。本当に過保護なんですね。――まぁ、あんたにだけでしょうけど」
猫はちょっとあきれたような顔をして、ふぅっと息を吐いた。
「じゃあ私が教えて差し上げましょう。知ることはいいことです。何も知らずに過ごすよりはずっと己の為になる。
――…あんたも知りたいでしょう?」
「……う、うん。なんかちょっと怖い気もするけど………」
「心配入りませんよ。奴はもうこの町にはいませんからね」
「?」
「綱吉さん、あんたを襲ったのは丸池に住みついた水蜘蛛の精って奴だったんですけどね。
ここいらでは新参者だったんで、稲荷狐のお気に入りに手を出すとどうなるかなんて皆目見当がつかなかったんですよ。
――…今頃は遠く離れた土地にでも飛ばされて、狐の恐ろしさに肩を震わせていることでしょうよ」
「………へ、へぇぇ……。じゃあやっぱりあの時見た小さいクモがそうだったのかな……。
でもあんなに小さいクモが人を食べるなんて、なんか想像つかないけど………」
「私らに身体の大きさなんて関係ありませんよ。要は力の問題です。
人間を襲うだけの力が水蜘蛛にあったってだけの話です」
「……ふぅん、そうなんだ……、見た目じゃわかんないのか」
「綱吉さんは人よりそういう類の者に気にいられやすいみたいですから、
もうおかしな女になんて着いて行かない事です。用心なさい」
「………。
――…ねぇ、なんで又吉があの女の人のこと知ってるの?……それもハヤトが話したの?」
(俺が襲われたのはハヤトから聞いたんだろうけど……。
でもめずらしいよね、このふたりが会話するなんて……)
「………あのねぇ綱吉さん、まぁ私だって狐と会話することくらい、生きてりゃ1度や2度くらいありますけどね。
そんなにペラペラ仲良くおしゃべりなんてしませんよ。知ってるでしょう…?」
「うん。…又吉とハヤトは仲悪いよね」
「そうです。狐と猫又は気が合わないんです。
面倒なんで結論から言いますけどね、あんたが最初水蜘蛛にフラフラ付いて行った時、助けてくれた男がいたでしょう。
ありゃ私ですよ」
「――……、えぇっ!? あのおじさん!?」
「あんたがいかにも妖しそうな女に着いて行くもんだから、こっそり後をつけて助けてあげたんじゃないですか。
……それなのに、あんたも懲りませんねぇ」
「2度も襲われるなんて」と、猫はものすごく呆れた視線を向けて来たけれど、そんなの自分のせいじゃ無いだろう。
―――…それより……、
「又吉も人に化けたり出来るんだねぇ……」
確かにあのおじさん、ちょっと変な感じはしたけど……。
呆気に取られたままの綱吉に、猫は小さく髭を揺らした。
「私だってそれなりに長く生きてますしね。
――…それより綱吉さん、あんた、これからもここにいる間は少々用心しておきなさいね。
…まぁ、変なのに会ったらとりあえず無視して、あの狐でも呼べばいいんですよ。
この町で稲荷狐より力を持った者なんていませんからね」
そう言うと、猫はぴょんっと布団またいで、
「私はちょっと外に出掛けて来ますから、あんたはおとなしく寝てるんですよ」
と、短い尻尾を揺らして、色とりどりの花が咲く、日々草の草陰へと消えていった。